マキは、重厚な引き戸に手をかけた。ガラスが入った飴色の格子がカラカラと音を立てる。戸を開けると、薄暗い玄関に黒い着物に袴を着た中年の女性が正座していた。
「樟田マキです」
「お待ちしていました」
静かでありながら、どこか厳粛な響きを持つ女性の声。マキは草履を脱ぎ、腰から抜いた刀を右手に持つ。案内された控えの間は、畳敷きの和室だった。座卓の上には茶菓子が用意されている。しかし、マキが座布団に腰を落ち着けたと思った途端、ふすまの向こうから先ほどの女性に声を掛けられた。
「どうぞ、広間においでください」
飴色に磨き上げられた木の廊下を挟んで反対側の広間。華やかなふすま、天井が高く、欄間には見事な彫りが施されている。式典などで幾度か訪れたことがある場所だったが、一人で来るのははじめてだ。マキは入り口近くで刀を右側に置き、深々と平伏した。
「こちらに……。近くに来なさい」
顔を上げると、上座に座る初老の男性が見えた。黒い着物、襟が全て金の黒い陣羽織。マキは少し驚いた。蘇芳トウセイ、ジンの兄であり蘇芳家の当主。華守衆の頂点に君臨する、いわば絶対的な存在。華守衆たちはトウセイを「お館さま」とよぶ。
ジンに関わる話だから蘇芳の誰かが出てくるとは思っていたが、まさかトウセイ本人が出てくるとは思っていなかったのだ。
マキは一度立ち上がり、広間を進んでトウセイと同じ間まで行く。そこで再び正座し、もう一度平伏した。
「話が長くなる。顔を上げなさい」
「失礼します」
マキが身体を起こすと、トウセイと目が合った。やや太くつり上がった眉、まぶたはシワでゆるんでいるものの、鋭い目つき。四角い顎と引き結ばれた口元。マキはふと、トウセイの目元が、どこかジンに似ていると思った。
トウセイが口を開く。
「獣蟲と対峙したと聞いている。状況を……」
マキは軽く頭を下げてから答えた。
「平瀬慎吾の護衛にあたっていたところ、通常の蟲の出現後に現れました」
「姿は?」
「蜘蛛の身体に、猿の頭でした。あのときとよく似た個体でした」
トウセイの表情がほんの一瞬、固くなった。「あのとき」とは、ジンが殺されたときのことだ。
「獣蟲の姿を見たのは、お前と一条アケルのみか?」
「いいえ、平瀬慎吾も目撃しています。桐谷さんは見ていません」
トウセイは何かを考えるように視線を落とした。重い沈黙が広間に落ちる。マキも黙って座っていたが、口元をわずかに動かし、また引き結んだ。
しかしトウセイは、その小さな仕草を見逃していなかった。
「発言をゆるす。言え」
その言葉に、マキは軽く頭を下げた。
「あれには『戦術』がありました。これは一条アケルも同意見です」
トウセイがマキを見据える。何かを問うような視線。マキは少し迷ったが、意を決して口を開いた。
「……もしかすると、何らかの術のようなものも使うかもしれません。このような場で不確定なことを申し上げるものではないのは理解していますが……」
トウセイがより顔を険しくして深いため息をついた。それはマキの発言態度に対してではなく、その内容に対しての反応のようだった。
また重い沈黙が訪れる。
「なぜ、また獣蟲が……?」
マキがポツリと呟いた。それは質問というより、独り言に近い。
本来であればトウセイはマキの言葉に応える義理はない立場だったが、トウセイはうなずいた。
「確かにあの一件以来、獣蟲の報告はなかった。……が、お前たちが遭遇する前日だ。東杏で発生報告があった」
マキの目が見開かれた。
「対峙した華守衆は死んだ。……獣蟲が討伐できたのは不幸中の幸いだった」
マキは思い出す。あの日、控え室で過ごすマキたちの元に東杏の華守衆が殉職した報せが入ったのだ。
「つまり今現在、獣蟲と対峙して生きているのは、お前と一条アケルだけだ」
マキは、まるで鉛でも飲んだように胃の辺りが重くなるのを感じた。
「獣蟲に関して思い出したことは何でも報告しろ。さっきのようなあやふやなものでも構わん」
マキはうなずいた。
不意に何かを思い出したようにトウセイが言う。
「そういえばお前は、毒花を使えるのだったな? ジンと同じように」
「……はい。ただ、使ってはいません。……ご指示の通りに」
トウセイは腕を組み、しばらく何かを考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「……お前と、一条アケルには伝えておいたほうがいいかもしれんな」
マキは眉を寄せた。トウセイの意図が分からない。怪訝な顔をするマキに対し、トウセイは重々しく言った。
「獣蟲発生の背後には、人がいるかもしれん」
マキは、膝の上の手を強く握りしめた。
一通りの聴取が終わると、トウセイが告げた。
「よい。下がれ」
マキは一度平伏してから後ずさりし、立ち上がろうとする。しかしその途中で不自然によろめいた。
トウセイが気遣うように少し身を乗り出す。
「傷に障ったか?」
「いえ……」
マキは少し迷ってから正直に答えた。
「足がしびれました」
トウセイの口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「……いつか」
首を傾げるマキに、トウセイは静かに言う。
「お前が覚えているジンの話を聞いてみたいものだ」
マキは黙っていた。覚えているジンの姿はある。しかし、この場には似つかわしくないとも思う。
マキが知るジンは、いつも薄汚くて、乱雑で、行儀が悪かった。
「失礼いたします」
マキは深く平伏してから、作法どおりにふすまを閉じた。
―共通の 知り合いがもつ 二面性 どちらが表で どちらが裏か―
◆
同じ日の午後、名梧屋市内にある藍知県図書館。アケルは学術書コーナーで、机に数冊の本を積み上げていた。グレーのインナーに白い半袖シャツ、紺のスラックスという私服姿だが、腰に下げた刀が彼の正体を物語っていた。
アケルの前に積み上げられているのは、全て蜘蛛に関する専門書だった。アケルは一冊一冊丁寧にページをめくり、写真と解説を見比べている。
「……」
ふと、アケルの手が止まった。ページに載っているのは茶色い蜘蛛の写真。ワスレナグモ。準絶滅危惧種。
ずんぐりとした短い足、地面に糸を張る習性、獲物に飛びかかる仕草。どれも、あの獣蟲の蜘蛛部分の特徴と合致している。これまで見てきた蟲は、わりとありふれた虫ばかりだったはずだ。
アケルはワスレナグモについて詳しく書かれた本を選び、それ以外は本棚に戻した。今度は霊長類のコーナーに向かう。
移動中、腰の木札がブゥンと音を立てて緑に光った。
「はい、一条アケルです」
図書館の静寂を破る声に、周囲の利用者が振り返る。出で立ちで華守衆だとすぐに分かるらしく、驚くような表情や、許容するような表情を浮かべている。アケルは慌ててロビーに出た。
連絡の内容を聞き終えると、アケルは答えた。
「今から向かいます。すぐ近くにいるので」
◆
名梧屋城に隣接する官公庁のビルが立ち並ぶ一角。歴史的な建物も混ざる中、護華庁藍知庁舎は、大きな木々と花に囲まれ、周りの建物よりはいくらか小さいながらも一際古典的な外観を誇っていた。すぐ近くには、つい先日アケルとマキが運び込まれた共済病院もある。
アケルがビル内に入ると、ダークカラーのスーツを着た職員たちが忙しく行き交っている。黒い陣羽織姿の華守衆もちらほら見かけるが、官庁であるだけに私服姿は珍しい。わずかな居心地の悪さを感じつつ、アケルはエレベーターで最上階である七階に上がる。
支部長室の前で、アケルは剣帯から刀を外して右手に持った。ひとつ深呼吸をしてから重厚な扉をノックする。
「どうぞ」
部屋に入ると、桐谷ヒロトと、もう一人の女性がいた。三十代後半と思われる凛とした美しさを持つ女性で、金色の立ち襟の陣羽織を着ている。蘇芳マツリ。護華庁藍知支部の最高責任者だ。蘇芳家当主の長女であり、次期当主ともうわさされている。蘇芳の家の者を前に、アケルは己の背筋が自然と伸びるのを感じた。
「休養中にすまない」
マツリの横から、桐谷が申し訳なさそうに言った。
「いえ、大丈夫です」
「新年のあいさつ以来ですね。身体は大丈夫ですか?」
蘇芳マツリがたずねた。声の質は冷たくはないが、威厳がある声は、トウセイとよく似ているとアケルは思う。
「はい。大事ありません」
「それはよかったです。……とはいえ休養中の者を立たせておくものでもありませんね」
マツリは執務机から立ち上がり、応接用のソファに移動した。アケルに視線で正面の席を示す。
「失礼します」
アケルはソファに座り、刀を右膝の横に立てかけた。
マツリの背後に、壁に設置された大型モニタが見える。そのモニタには、通報司令室のモニタと同じものが表示されている。通報のあった場所や、戦闘が行われている現場、華守衆の現在地などがリアルタイムで表示されるのだが、今はこの辺りは落ち着いた状況であるようだった。
マツリが小さく息をついて口を開く。
「先日、対峙したという獣蟲についてです」
アケルは小さく「はい」と答えた。予想通りの用件だった。
「樟田マキからは何か聞きましたか?」
「里に行くまでマキを育ててくれた人が、それに殺されたとだけ」
マツリが何かを確認するように小さくうなずき、口を開く。
「知ってのとおり蟲は、虫です。しかし獣の身体も併せ持つものを、護華庁では獣蟲とよんでいます」
アケルは黙ってうなずく。
「獣蟲の報告例は、現在三件です」
マツリは指を折りながら続けた。
「一件目は蘇芳ジンの件、二件目が四日前の東杏。そして三件目が三日前、あなたたちの件です」
アケルの眉間にシワが寄った。アケルの表情から、彼が考えたことが分かったのだろう、マツリがほんの少し口の端を上げる。
「ええ。あなたの想像通り、東杏の殉職の件です」
マツリは少しだけ身を乗り出して言った。
「私たちは、獣蟲についての情報が欲しいの。できるだけ詳しく話してください」
アケルは戦闘の状況をできるだけ丁寧に話した。相手の戦術性、蜘蛛としての性質、マキが一瞬ひどく動揺したこと。ただし、ワスレナグモではないかと思った件は、確証がないためさりげなく伏せた。
マツリは時折質問を交えながら、一通りの報告を聞いた。
「ありがとう、あなたから何か質問は?」
「東杏の獣蟲はどのような姿だったのですか?」
マツリは目を閉じてこめかみを揉んだ。
「あまり詳しくは……。居合わせた一般人は、透明な羽根と長い胴体、トンボではないと言っていたそうよ。対峙した者からの連絡では犬のような顔がついていたと」
つまり、アケルたちが対峙したものとはだいぶ姿が異なるらしい。
アケルはひとつうなずいて、別の疑問を口にした。
「他の華守衆への周知は?」
「正直微妙なところね。まだ三件、しかも前回から十年以上空いている。周知しようにも、こちらも情報が少なすぎるのよ」
これにはアケルも納得する部分があった。今の状況では、まるで幽霊の目撃情報のようなものだ。つかみ所が全くない。
「そういう意味でも、何か思い出したら何でもいいから教えてもらえると、みなが助かるわ」
「わかりました。あとでマキとも話し合ってみます」
「そうしてちょうだい」
それからマツリは桐谷に向き直って言った。
「彼を車で送っていってあげて」
アケルは少しあわてて首を振る。
「いえ、大丈夫です」
しかしマツリはニコリと笑った。美しいカーブを描く、口紅が塗られた唇。
「休養日に呼び出したのはこちらなのだから、それくらい甘えなさい。これは命令よ」
そう言われてしまっては反論できない。
「車を取って参ります」
桐谷が部屋を出ていく。二人きりになると、マツリは声をひそめた。
「しばらく、身辺に気を付けなさい」
その意味が分からず、アケルは首をかしげる。
「これは、蘇芳でも確認が取れていない、憶測の情報よ。……獣蟲の発生には、人が関わっているかもしれないわ」
アケルはマツリの真剣な表情を見返した。そして、なぜマツリが桐谷に車を取りに行かせたかを悟った。要するにこの情報を桐谷の耳には入れるつもりがないのだ。
その時、桐谷が戻ってきた。
「車の用意ができました」
立ち上がって部屋を出るアケル。図書館から借りてきた本が、カバンの中で妙に重たく感じられた。
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