マキとアケルが向かった白い建物は自然動物館だった。ここでは、は虫類や両生類、夜行性動物などが飼育されているらしい。
二人が建物の入り口に近づくと、入り口を封鎖していた職員が、すぐに扉を開けてくれた。
灰色の作業服姿の痩せた男性に向かい、アケルが言う。
「蟲の討伐は完了しました。出てきていただいて大丈夫です。ケガをした人などはいらっしゃいませんか?」
心配そうに強ばっていた男性の顔に、ほっとした色が浮かんだ。
「大丈夫です。建物に避難する際に転んだりした人が少しいるようですが、来園者、職員共に問題はありません」
アケルは「よかった」と笑った。
◆
動物園は、今日はもう臨時閉園になったそうだ。館内から出てきた来園者たちが、ぞろぞろと出口に向かって歩いていく。
避難していた人々は、それぞれに複雑な表情を浮かべながら外に出てきた。やっと建物から出られたことにほっとして、家族同士で「怖かったね」「もう大丈夫だからね」と声をかけ合う者。一方で、破壊された入り口ゲートや地面に散乱した瓦礫を目の当たりにして、改めて恐怖の色を浮かべる者もいる。小さな子どもを抱いた母親は、子どもの視線が壊れた建物に向かわないよう、子どもの頭をそっと自分の肩に向けさせていた。年配の男性は杖をつきながら、足元の破片を避けるように慎重に歩いている。マキとアケルは、建物の入り口付近に立ち、なんとなくそんな人々を見送っていた。
二人の耳に、帰っていく来園者の声が聞こえてくる。
「あの華守衆が戦ってたのか?」
「すごい音だったよな? 大丈夫なのかな」
そういう声は華守衆にとって日常のもの。特に気になるものではない。しかし、群衆の中からは別の種類の声も聞こえてきた。
「蟲ってけっきょく虫だろ? しかもどれも気持ち悪い」
誰かの声。
「気持ち悪い虫なんか生かしておくから、蟲が発生するんじゃないの?」
それに応える別の声。
「ここはエサ用のゴキブリとかもいるもんね」
「うわ、考えただけで気持ち悪い。そういうのが蟲になってたりして」
「だよね。キリンとか、ゾウならそんなことはないのに」
その声の主は、身震いするような仕草をしながらも、声はまるで笑うようだった。
「ほんと今日は災難だったな。せっかくイケメンゴリラ見に来たのに」
マキとアケルは眉をひそめた。たしかに蟲は、人々に嫌われがちな虫の形をしていることがなぜか多い。だが、虫そのものが蟲に変わるわけではない。
「勝手言いやがって。蟲のことも知らねえくせに」
マキが小声で吐き捨てるように言った。アケルは何かを考え込むように黙っている。
「どうした?」
マキがふしぎそうにアケルの横顔を見る。
「……いや、何でもない」
アケルは首を振った。しかし、その表情には複雑な影が落ちている。
やがて来場者が全て出て行くと、その場には職員とマキたちだけが残された。先ほどの職員が、遠慮がちに口を開く。
「蟲の発生機序は正確には分かっていない。飼育下の虫が蟲になった報告例もない」
職員も、さっきの来園者たちの話を聞いていたらしい。彼は困ったような表情を浮かべながら続けた。
「動植物は複雑に関係しあっている。見た目が気持ち悪いからといって、どれかを排除すればいいというような単純な話でもないんですけどね……」
職員は、熱心に聞いているアケルの視線に気づいてはっとした。
「華守衆の方には釈迦に説法でしたね」
「いえ、とんでもない」
アケルは慌てて首を振る。そうしてアケルは興味深そうに館内の案内板を見回した。壁には様々な動物の写真と解説が掲示されており、その中には研究施設についての案内もある。
「ここは昆虫などの研究施設も兼ねているんですか?」
「ええ」
職員の表情が少し明るくなった。
「よかったら少し見せていただいてもいいですか? 俺、環境生態学の勉強をしていて……」
「おい、職務外だぞ」
マキが呆れたように言うが、アケルはニコニコと人好きのする笑顔を浮かべている。そんな二人の様子に職員は笑いを浮かべた。
「安全確認ということで、どうぞ? どうせもうお客さんもいませんから」
職員が続ける。
「研究者っていうのは、自分の研究分野に興味を持ってくれる人と話せるのは楽しいので」
マキは大きくため息をついた。
◆
職員に案内されて、マキとアケルは建物の裏手にあるラボに連れていってもらった。一般の来園者は立ち入れない、職員専用の空間だ。
アケルと職員は研究内容について何やら話し込んでいる。
「ああ、あの大学の通信科を受講されているんですか。当園は大学とも共同研究していますから」
職員がポケットから名刺を取り出してアケルに渡すのが見えた。
「改めまして、研究員の西崎といいます」
「一条アケルです」
マキは、壁際に並んだ飼育ケースに入れられた虫や小動物をぼんやりと見ていた。透明なアクリルケースの中では、様々な生き物が静かに動いている。ムカデ、コオロギ、小さなヤモリのような生き物。どれも確かに、一般的には「かわいい」とはいわれないような生き物ばかりだ。
里の子どもたちは基本的に虫を怖がらないように育てられる。虫に過大な恐怖を抱いていては、蟲と戦うことなどできないからだ。だからマキにとってさっきの来園者のような反応は、里を出てから知ったものだった。
マキの目が、ふとあるケースで止まった。
「おい、アケル」
「うん?」
アケルが西崎との会話を中断して振り返る。
「これ、見てみろよ」
マキが指差した先には、茶色い蜘蛛がいた。ワスレナグモ。
マキが何か言いそうなのを表情で制して、アケルは西崎に向き直った。
「ワスレナグモ、たしか準絶滅危惧種でしたよね。そういう研究もされているんですか?」
「ええ。それはたまたま隣の植物園で見つかった個体ですけどね。他にも何種類か、保護して生態を研究していますよ」
西崎は嬉しそうに、いくつかのケースを見せてくれた。アケルはそれらを興味深そうに眺めていたが、一つのケースの前で足を止めた。
そこにいたのは、透明な羽根と長い胴体を持つ昆虫だった。
「ちょっとこれ、写真に撮らせてもらっていいですか?」
「どうぞ」
アケルはスマートフォンを取り出して、慎重に写真を撮った。その虫の形が分かるように、角度を変えながら何度か。一方でマキは、黙ってワスレナグモの動きを眺めている。
「仕事をしながらではありますが……そのうち卒論とかも書くと思うし、もし見てもらいたい個体とかがあったら、相談させていただてもいいですか?」
「もちろん。名刺の連絡先にいつでも送ってきてください」
アケルの営業スマイルに、西崎は快くうなずいた。
◆
マキとアケルが建物から出ると、もう帰ったと思っていたヒナとシノブの姿があった。二人は入り口の近くで待っていたらしい。
「遅かったじゃん。さっき護華庁の人も後始末に来てくれたよ。私たちはもう帰っていいって」
ヒナが人懐っこい笑顔で近づいてくる。
「こいつが道草食ってたんだよ」
マキがアケルを指差すと、アケルはあいまいに笑った。
「よかったらこの後、いっしょにご飯でもいかない?」
ヒナの提案に、マキは面倒くさそうに目を逸らした。
「いいじゃん、一期一会の縁だよ」
「マジかよ」
マキの渋る声を無視して、ヒナは強引に二人を誘う。ヒナの相棒であるシノブは、ヒナのそんな行動には慣れているのか、特に止めるでもなく眺めている。結局マキとアケルは何だかんだとヒナに押し切られ、近くの飲食店で食事をすることになった。
マキたちは、ソフトクリームが乗ったデニッシュを食べそびれていたことを思い出す。
ヒナとシノブの後ろを歩きながら、マキがアケルに小声で話しかけた。
「アケル、さっきの……」
「うん。マキの言いたいことは分かってる。実はあの喫茶店で言いかけたのが、それだったんだ」
アケルは前を歩く二人を見て、声を落とした。
「話すのは二人きりのときにしよう」
「……」
マキが何か言いかけたとき、ヒナが振り返って二人を呼んだ。
「マッキー、アケルっち、置いてくよー」
―見目悪く 捨てられる花 数多く 店先ならばず 知る人もなく―
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