地区予選の日は、朝から空が重たかった。
雲は低く垂れ込めて、海からの風は湿気を含んでいる。市営球場のスタンドには、朝早くから生徒たちが集まっていた。応援旗がいくつも風に揺れ、ブラスバンド部の練習する太鼓の音が、遠くまで響いていた。
あかりは、スタンドの一番上の席に座っていた。隣にはサキがいて、スケッチブックを膝の上に広げている。その横に、ハルが静かに座っていた。ユウマは、今日は野球部の控え選手として、ベンチの中にいる。
「佐伯くん、いたね」
あかりが指差すと、ベンチの端で、ユウマが大声で応援歌を歌っていた。その姿に、サキが小さく笑った。
「佐伯くん、ずっとああなんです。練習中も、ずっと声出してて」
「らしいね」
あかりも笑った。ユウマは、ケンの一年下で、入学してから一番最初にケンの球を受けた後輩だった。ケンからは、「あいつ、めちゃくちゃ根性あるぞ」と聞いていた。
グラウンドの向こうで、ケンが投球練習を始めた。ボールが空気を切り裂く音が、ここまで聞こえてくるようだった。キャッチャーのミットに、白いボールが吸い込まれる。その音が、なぜか胸の奥にまで響いてくる。
あかりは、思わず手を握りしめた。
「今日は、高橋先輩が投げるんですね」
サキが、小さな声で言った。
「うん。先発なんだって」
「大丈夫ですかね。最近、肩を痛めてるって聞きました」
あかりは、その言葉に答えられなかった。ケンが坂道で肩を押さえていたあの日から、もう二週間が経っていた。その間、ケンは一度も、肩のことを話してくれなかった。
試合が始まった。
ケンの投球は、最初の二回までは完璧だった。直球が唸りを上げて、相手打者のバットは空を切った。スタンドから、歓声が上がる。あかりは、思わず立ち上がって、手を叩いていた。
「いいぞ、ケン!」
自分でも驚くほどの大声が出た。隣でサキが、くすくすと笑う。ハルも、穏やかな顔で、小さく拍手をしていた。
三回の裏、ケンが投げた一球が、ほんの少しだけ、高めに浮いた。
打者が、それを見逃さなかった。鋭い打球が、三塁線を破った。ボールは転がり、外野の深い位置まで飛んでいく。ケンは、そのボールを振り返り、必死に走った。だが、その足取りは、どこか重たそうに見えた。
一点を失った。
四回、五回と、ケンの球威は少しずつ落ちていく。ストレートは伸びず、変化球は曲がりきらない。ケンは、何度もマウンドで肩を回した。そのたびに、顔がゆがむのが、遠くからでもわかった。
ベンチから、監督が、審判に何かを告げた。ユウマが、慌ててブルペンへ走っていく。
「ケン、やっぱり、無理してたんだ」
あかりの声は、震えていた。隣で、ハルが静かに言った。
「高橋くん、まだ投げるつもりみたいですね」
その通りだった。ケンは、マウンドで首を横に振っていた。監督が、もう一度何かを言う。それでも、ケンは頑として、ボールを離さなかった。
そして、六回の表、ケンは打者にホームランを打たれた。
白球が、青空の下で、大きな弧を描いて、外野スタンドへ吸い込まれていく。その瞬間、あかりは息をするのも忘れた。
ケンが、マウンドで膝をついた。
「ケン!」
あかりの叫びが、スタンドに響いた。だが、ケンは顔を上げなかった。やがて、監督とユウマが、ケンの元へ駆け寄った。ケンは、なにか小さく言って、ユウマの肩を叩いた。それから、ゆっくりと立ち上がり、ベンチへ向かって歩き出した。
ケンの背中は、夏の光の中で、小さく見えた。
試合は、そのまま敗れた。最終回、ユウマが代わりにマウンドに上がったが、点差は縮まらなかった。最後のアウトが取られた瞬間、スタンドの一部から拍手が起こり、ベンチからは嗚咽が聞こえてきた。
あかりは、その場に座り込んでいた。胸の中が、からっぽになったような感覚だった。
サキが、そっとスケッチブックを閉じた。
「三浦先輩、行かなくていいんですか」
「……うん。今は、行けない」
あかりの声は、かすれていた。ケンに、どんな言葉をかければいいのか、わからなかった。
「三浦さん」
ハルが、隣に立った。彼は、あかりの肩に、そっと手を置いた。その手は、少しだけ温かかった。
「僕、ちょっとだけ、見てきます。高橋くんのところ」
「ううん、私が行く」
あかりは、立ち上がった。足が、少しふらついた。ハルが、慌てて支えてくれた。
「ありがとう。でも、一人で行ってくる」
あかりは、そう言って、ベンチ裏の通路へ向かった。
通路は、薄暗かった。冷たいコンクリートの壁に、遠くの歓声がかすかに反響している。そこを、ケンが一人で歩いていた。ユニフォームの袖で、顔をごしごしと拭っている。
「ケン」
声をかけると、ケンは立ち止まった。振り返らずに、肩を震わせていた。
「……なんだよ。見てたのかよ」
「うん。見てた」
「かっこ悪かっただろ、俺」
あかりは、首を横に振った。
「かっこ悪くなかったよ。ケン、ずっと頑張ってた」
ケンは、ようやく振り返った。目が赤く、頬には涙の跡があった。その表情は、小学生の頃の、泣き虫だったケンそのものだった。
「頑張っても、負けたら意味ねえんだよ。肩壊して、チームに迷惑かけて、最後は打たれて。何やってんだ、俺」
「そんなことないよ。ケンは、ずっとチームの中心だったじゃん」
「中心でも、投げられなきゃ、ただの邪魔者だろ」
ケンの声が、急に荒くなった。あかりは、思わず一歩下がった。ケンは、自分の拳を、壁に叩きつけた。
鈍い音が、通路に響いた。
「ケン、やめて」
「ほっといてくれよ。お前だって、星ばっか見て、どうせ俺のことなんか、どうでもいいんだろ」
その言葉は、あかりの胸に、鋭く突き刺さった。
そんなことはない。そう言いたかった。でも、喉の奥で言葉が詰まって、声にならなかった。ケンの目が、あかりを見ていた。怒りと、悔しさと、どうしようもない寂しさが、その目の中で渦を巻いていた。
「……ごめん」
ケンは、ぽつりと言った。そして、あかりから目を逸らした。
「今は、一人にしてくれ」
それだけ言って、ケンは通路の奥へと歩き去っていった。背中は、もう振り返らなかった。
あかりは、その場に立ち尽くした。通路の向こうから、ユウマの声が聞こえてきた。何かを叫んでいる。でも、その言葉は、あかりの耳には届かなかった。
しばらくして、あかりはスタンドへ戻った。サキとハルが、心配そうな顔で待っていた。
「ケン、どうでしたか」
サキが聞いた。あかりは、首を横に振った。
「わからない。一人になりたいって」
ハルは、何も言わなかった。ただ、あかりの隣に座り直して、そっと空を見上げた。空は、いつの間にか、雲が切れて青くなっていた。
「高橋くん、きっと、悔しいんだと思います」
ハルがぽつりと言った。その声は、穏やかだった。
「悔しいから、人に当たっちゃう。それは、悪いことですけど、わからなくはないです」
あかりは、ハルを見た。ハルは、少しだけ寂しそうに笑っていた。
「藤原くんにも、そういうことがあった?」
ハルは、答えなかった。ただ、遠くの空を見つめていた。その横顔は、夏の光の中で、どこか透き通って見えた。
帰り道、あかりは一人で坂道を歩いた。いつもなら、そこでケンと待ち合わせて、並んで帰っていた。でも、今日は誰もいなかった。
坂の途中で、スマートフォンが震えた。画面には、ケンの名前が表示されていた。
あかりは、息をのんで、画面を見つめた。指が、通話ボタンの上で止まった。
けれど、結局、あかりは出られなかった。
少しして、メッセージが届いた。
『わるい。明日、ちゃんと話す』
それだけだった。あかりは、その文字を、何度も何度も読み返した。明日、ちゃんと話す。その言葉を、信じたいと思った。
夜、部屋の窓から空を見上げた。雲は消えていて、星が、いつもより少しだけ多く見えた。
あかりは、ふと、ケンのことを思い出した。小学生の頃、神社の裏山で、一緒に星を見上げた夜のことを。あのとき、ケンは「いつか、俺が一番になって、お前に星を見せてやる」と言った。
その言葉を、ケンは覚えているだろうか。
あかりは、目を閉じた。涙が、ひとつぶ、頬を伝って落ちた。
翌朝、あかりはいつもの坂道で待っていた。
約束をしていたわけではない。ただ、ケンが来るような気がして、いつもより早く家を出たのだ。坂の上から、朝の街が見下ろせる。海は、きらきらと光っていた。
しばらくすると、足音が聞こえた。ケンだった。ジャージ姿で、肩に大きなバッグをかけている。顔はまだ、少し腫れぼったかった。
「早いな」
「うん。ケン、待ってたの」
ケンは、少しだけ口元を歪めた。笑おうとして、うまくいかなかったような顔だった。
「昨日は、悪かった」
「ううん、私こそ。何も言えなかった」
二人は、並んで歩き出した。昨日までの、いつもの距離よりも、少しだけ離れていた。それでも、同じ方向へ歩いていた。
「病院、行ってきた」
ケンが、ぽつりと言った。あかりは、足を止めそうになって、慌てて歩き続けた。
「どうだった」
「肩、炎症起こしてるってさ。しばらく、投げるのは禁止だって」
「……そう」
「夏の大会、もう出られないってことだ。引退、ってわけじゃないけど、今年はここまでだな」
ケンは、空を見上げて、息を吐いた。その息は、白くはなかったけれど、重たく見えた。
あかりは、なにも言えなかった。ただ、隣を歩いた。足音だけが、朝の静かな道に響いていた。
「監督には、正直に言ったよ。投げたいって、ずっと言ってたけど、もう無理だって」
「ケン、それでいいの」
「いいわけねえだろ」
ケンは、笑った。その声は、少しだけ明るく響いた。
「でも、いいんだよ。俺、ずっと、野球しかなかったからさ。野球がだめになったら、俺は何もない気がして、怖かったんだ」
あかりは、ケンの横顔を見た。小学生の頃の、ぶかぶかのユニフォームを着ていた少年の顔が、ふと重なった。
「ケンは、何もなくなんかないよ」
「そうかよ」
「うん。私、知ってるもん。ケンが、どれだけ頑張ってきたか」
ケンは、何も言わなかった。ただ、少しだけ歩く速度を緩めた。坂の途中で、二人は立ち止まった。
海が、目の前に広がっていた。朝日が、水面を金色に染めている。
「あかり」
「なに」
「お前さ、天文部、大変なんだろ」
「うん。部員、あと二人足りない」
「まだ、諦めてないのか」
「うん。諦めたくない」
ケンは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと、鞄の中を探った。取り出したのは、一枚の紙だった。
それは、野球部の退部届でもなければ、入部届でもなかった。
『天体観測部 仮入部届』
あかりは、目を見開いた。紙の隅に、ケンの字で、小さく名前が書かれていた。
「なにこれ」
「いや、ほら、お前の部、人足りないんだろ。それに、俺、どうせ投げられないし、暇になるしさ」
ケンは、照れくさそうに頭をかいた。その耳が、ほんのり赤くなっていた。
「それに、昨日、お前が来てくれたの、嬉しかったんだ。大変な時に、一人じゃないってわかって、ちょっとだけ楽になった」
あかりは、紙を両手で受け取った。その紙が、朝の光を受けて、白く輝いて見えた。
「ケン、ありがとう」
「礼はいいよ。まだ仮だからな。本入部するかどうかは、俺が決める」
「うん、わかった」
二人は、顔を見合わせて、笑った。今度は、ちゃんと笑えた。
その日の放課後、あかりは部室で、ケンの仮入部届を、ハルとサキとユウマに見せた。ユウマは「まじっすか、高橋先輩が」と大声で叫び、サキは「やっぱり、高橋先輩も、星が好きだったんですね」と、嬉しそうに微笑んだ。
ハルは、紙をじっと見つめていた。それから、ふっと小さく笑った。
「高橋くんらしいですね」
「どういう意味?」
「なんとなく。真っ直ぐで、ちょっとだけ不器用な感じが」
あかりは、思わず吹き出した。確かに、その通りだった。
その夜、ハルが一通の手紙を持ってきた。封筒には、丸っこい女の子の字で、「藤原ハルくんへ」と書かれていた。
「前の学校の子からです」
ハルは、少しだけ声を硬くして言った。あかりは、ハルの横顔を見た。その表情は、いつもと違って、どこか揺れているように見えた。
「誰から?」
「ミオです。前に話した、星を見るのが好きだった子」
あかりは、息を呑んだ。ハルが、その子のことを話すのは、これが初めてだった。
「ミオさん、今、どうしてるの」
「手紙には、元気にしてるって書いてあります。それと、夏休みに、一緒に観測したいって」
「そうなんだ。会いに行くの?」
ハルは、答えなかった。ただ、封筒を指でなぞっていた。その指先が、少しだけ震えていた。
「まだ、わからないです。僕、あの子に、ちゃんと話せることがあるのか、わからなくて」
「話せることって?」
「僕、父さんのことを、ミオに言えなかったんです。父さんが、星を見ながら、ずっと僕に言ってた言葉のこと。それを、ちゃんと伝えたら、ミオは怒るかもしれないし、笑うかもしれない」
ハルは、ゆっくりと語り始めた。彼の父親は、天文学の研究者だったこと。夢の途中で病気になり、そのまま亡くなってしまったこと。ハルは、父親の望遠鏡を受け継いで、ずっと一人で空を見てきたこと。
「ミオは、僕の父さんに、一度だけ会ったことがあるんです。その時、父さんが、ミオに星の話をしてくれて。それから、ミオは、星が好きになったんです」
あかりは、なにも言えなかった。ハルの過去は、思っていたよりずっと重く、そして、どこか美しかった。
「藤原くん、ミオさんに会いに行こうよ」
あかりの言葉に、ハルは驚いたように顔を上げた。
「でも」
「一人で行くのが怖いなら、私も行く。それで、星を見ればいいじゃん」
ハルは、長い間、黙っていた。それから、ゆっくりと、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。考えてみます」
窓の外では、夏の夜空が広がっていた。星は、少しずつ、増えていくようだった。
大会から一週間後の日曜日、あかりとハルは、電車に乗って山の方へ向かっていた。
行き先は、隣の県にある小さな天文台だった。ハルが、前の学校の先生を通じて、見学の許可を取ってくれたのだ。あかりは、ずっとこの日を楽しみにしていた。昨夜は、なかなか寝つけなかったほどだ。
窓の外には、夏の緑が、次々と流れていく。田んぼの水面が、朝日を受けてきらきらと光っていた。
「三浦さん、大丈夫ですか。眠そうですけど」
隣の席で、ハルが小さく笑った。あかりは、慌てて背筋を伸ばした。
「大丈夫。ちょっと、楽しみすぎて」
「僕もです。実は、昨日、ほとんど眠れなくて」
ハルの照れた顔が、窓の光に照らされていた。その横顔を見ながら、あかりは、昨日のケンのことを思い出していた。
ケンは、大会のあと、ずっと部室に来ていなかった。肩の治療に専念するためだと、ユウマは言っていた。でも、あかりの心の中には、どこか引っかかるものが残っていた。
あの日、通路で拳を壁に叩きつけた音が、今でも耳に残っている。
電車が、トンネルに入った。窓の外が、一瞬で真っ暗になる。その中で、あかりは、自分の顔が窓に映っているのを見た。少しだけ、不安げな顔だった。
トンネルを抜けると、また緑が広がった。山あいの小さな駅で降りると、夏の匂いが、濃く鼻をくすぐった。セミの声が、あたり一面に響いている。
「すごい、セミの声。東京より、ずっと大きいかも」
「ここ、夜は本当に静かなんですよ。星がよく見えるところなので」
ハルの言葉に、あかりは頷いた。駅前のバス停には、誰もいなかった。二人は、地図を頼りに、山道を歩き出した。
坂道は、思ったよりきつかった。汗が、額から流れ落ちる。それでも、あかりは、足を止めなかった。ハルは、重たいリュックを背負って、黙々と前を歩いていた。
「藤原くん、重くない? それ」
「大丈夫です。望遠鏡の予備レンズが入ってるだけなので」
「それ、重いよ」
「いえ、慣れてますから」
ハルは、振り返って、少しだけ笑った。その笑顔を見て、あかりは、少しだけ心が軽くなった。
一時間ほど歩いた頃、木々の間から、白い建物が見えてきた。ドーム型の屋根が、夏の青空に映えている。その屋根の上に、大きな望遠鏡の筒が、ゆっくりと動いているのが見えた。
「あれです。あの天文台」
ハルの声は、少しだけ弾んでいた。あかりは、思わず駆け出した。
天文台の入口には、白髪の男性が立っていた。白衣の胸ポケットには、ボールペンが何本も挿してある。
「君が、藤原くんか。よく来たね」
「はい。今日は、ありがとうございます」
ハルが、丁寧に頭を下げた。その横で、あかりも慌てて頭を下げる。男性は、にっこりと笑った。
「宇野です。ここの職員をしてる。君のお父さんとは、昔、大学で一緒だったんだよ」
ハルの肩が、少しだけ揺れた。宇野先生は、そのことに気づいて、穏やかに続けた。
「お父さんは、本当に熱心な研究者だった。夜遅くまで、ここで望遠鏡を覗いていたよ。君の話も、よくしてくれた」
ハルは、何も言えずに、ただ頷いた。その目の奥が、少しだけ、潤んでいるように見えた。
「さあ、中に入って。今日は、特別に、土星を見せてあげよう」
宇野先生は、そう言って、二人を建物の中へ案内した。
ドームの中は、ひんやりとしていた。天井は、暗くて、遠くまで見通せない。その中心に、巨大な望遠鏡が、ゆっくりと動いていた。
「ここが、本物の天文台だ。夜になると、この天井が開いて、星が見えるんだよ」
宇野先生が、スイッチを押した。天井の一部が、ゆっくりと開いていく。その隙間から、まばゆい青空が、光の筋となって差し込んできた。
あかりは、息を呑んだ。こんなに大きな望遠鏡を、間近で見るのは初めてだった。
「三浦さん、覗いてみてください」
ハルに促されて、あかりは、接眼レンズを覗き込んだ。
最初は、ぼんやりとした光の塊しか見えなかった。けれど、ピントを合わせると、突然、視界がはっきりと開けた。
そこには、輪をまとった、黄色い星があった。
土星だ。
「……すごい」
あかりの声は、かすれていた。輪の一本一本が、くっきりと見える。その輪が、まるで、夜空に浮かぶ、光の橋のようだった。
「綺麗ですね」
ハルの声が、横から聞こえた。あかりは、顔を上げずに、頷いた。
「うん。こんなの、初めて見た」
「僕も、父さんと一緒に、初めて見たときは、泣きそうになりました」
ハルの言葉に、あかりは、少しだけ顔を上げた。ハルは、遠くを見るような目で、天井の隙間から覗く空を見ていた。
「父さんは、『星はね、見る人の心を、ちゃんと映してくれるんだ』って言ってました。だから、悲しいときは、暗い星に見えるし、嬉しいときは、明るく見えるって」
「本当に、そうなのかな」
「わかりません。でも、今日の土星は、すごく明るく見えます」
ハルは、そう言って、少しだけ笑った。その笑顔には、いつもの寂しさが、少しだけ薄れていた。
天文台を出る頃には、もう夕方になっていた。宇野先生は、帰り際に、小さな星図をくれた。
「また来なさい。夜の観測会も、いつでも来ていいからね」
二人は、何度も頭を下げて、山道を下っていった。夕焼けが、山の稜線を赤く染めていた。
あかりは、ふと、足を止めた。振り返ると、天文台のドームが、夕日の中に、白く浮かんでいた。
「また、来ようね」
あかりの言葉に、ハルは、少し驚いたように振り返った。それから、ゆっくりと、頷いた。
「はい。また、来ましょう」
その声は、山の風に乗って、どこまでも遠くへ届いていくようだった。
夏は、もうすぐそこまで来ていた。
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