夏休みが明けると、学校の空気は一変した。
廊下のあちこちに、文化祭の看板が貼られている。『青葉祭』の文字が、色鮮やかなポスターの上で躍っていた。校庭の隅では、運動部が使わなくなった机や椅子を積み上げて、出し物の骨組みを作っている。ペンキの匂いと、木材を削る音が、朝から晩まで学校中に満ちていた。
あかりは、その中を毎日、早足で歩いた。手には、いつも展示の設計図が握られている。
「三浦、今日は何時まで残る?」
廊下で声をかけてきたのは、クラスの友人の田村だった。文化祭の実行委員もやっていて、いつも忙しそうにしている。
「ううん、六時くらいまで。部室で、星の模型を作るの」
「星の模型? 天文部って、そんなことやるのか」
「やるよ。今年は、ちゃんとやるの」
田村は、少し驚いたように目を丸くした。それから、にやりと笑った。
「へえ。なんか、いいな。こっちは焼きそばの模擬店で、もう皆ヘトヘトだよ」
「頑張って」
「お互いにな」
二人は笑って、それぞれの教室へ向かった。その後ろ姿を見送りながら、あかりは、なんだか胸の奥が温かくなるのを感じた。
夏休みの間に、天文部は少しずつ変わっていた。
まず、新しい部員が三人、本当に増えた。ユウマは、ほぼ毎日部室に顔を出すようになり、ハルの指導で、星座の名前を覚えるのが得意になっていた。サキは、美術部と天文部を行き来しながら、展示用の大きな絵を描いていた。そして、ケンは。
ケンは、夏休みの終わりに、正式に天文部へ入部した。
本入部届を出した日、彼は部室の入り口で、大げさに頭を下げた。
「高橋ケン、今日から天文部員です。よろしくお願いします」
「急にどうしたの、ケン。そんな改まって」
あかりが笑うと、ケンは頭をかきながら、ぼそりと言った。
「いや、なんか、ちゃんと言っとかないとと思ってさ。野球は辞めたけど、ここで何かやりたいんだ」
あかりは、その言葉を、胸の中で何度も反芻した。ケンの目は、真剣だった。
「ようこそ、天文部へ」
あかりが手を差し出すと、ケンは少し照れながら、その手を握った。大きな手は、以前よりも少しだけ、ごつごつしていた。
部員は、これで五人になった。
あかり、ハル、ユウマ、サキ、そしてケン。規定の人数に、ついに届いたのだ。
その事実を、生徒会のレイに報告しに行ったとき、彼女は少しだけ目を細めた。
「五人、そろったのね」
「はい。なんとか」
「なんとか、じゃないでしょう。あなたたちが、ちゃんと集めたんだから」
レイは、報告書に目を落としたまま、小さく頷いた。その横顔は、いつになく穏やかだった。
「廃部の話は、白紙に戻すよ。ただし、文化祭の展示で、ちゃんと結果を出すこと。そうしないと、来年は本当に、おしまいだからね」
「わかりました」
あかりは、深く頭を下げた。胸の中が、熱くて、少し痛かった。
展示の準備は、ここから本格的に始まった。
場所は、美術室の隣の廊下。篠原先生が、生徒会と交渉して確保してくれた、細長いスペースだった。窓からの光がよく入る、いい場所だ。
「ここに、星空を作ろう」
あかりの提案に、みんなが頷いた。
展示のテーマは、『光の届かない場所で』。町の明るさで見えなくなってしまった星を、もう一度、この校舎の中に呼び戻すというコンセプトだった。このアイデアは、ハルと一緒に、夏の観測の帰り道で思いついたものだった。
「町の光が強くて、星が見えないんです。でも、本当は、星はずっとそこにあるんです」
ハルがそう言ったとき、あかりは、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
展示の準備は、想像以上に大変だった。
まず、廊下の天井に、暗幕を張る。段ボールを組み合わせて、ドーム型の空間を作る。その内側に、サキが描いた星空の絵を貼る。さらに、ハルの望遠鏡で撮った月や惑星の写真を、大きく引き伸ばして飾る。夏の観測記録は、ノートごと、透明なケースに入れて展示する。
「ドームの骨組み、すごく大きいですね」
ユウマが、段ボールの山を見上げて、ため息をついた。
「それ、全部、切って組むんですか」
「そう。ここにいる五人で」
あかりが答えると、ユウマは腕まくりをした。
「よっしゃ。やりましょう。俺、こういう肉体労働、得意なんで」
「佐伯くんは、道具を壊さないでね」
「わかってますって。夏休みに、望遠鏡をぶつけた件は、もう忘れてください」
ユウマの情けない声に、みんなが笑った。笑い声が、暗い廊下に響いた。
最初の数日は、段ボールを切るだけで終わった。カッターの刃が折れたり、指を切ったりと、小さな事故も続いた。それでも、みんな、黙々と手を動かした。
ケンは、意外なほど器用だった。段ボールの接合部を、きれいに補強していく。その手つきを見て、ハルが感心したように言った。
「高橋くん、こういうの、得意なんですか」
「まあな。昔、バッティングマシンの改造とか、やってたから」
「バッティングマシン?」
「親父が、昔の部品を集めるのが趣味でさ。小学生の頃、よく一緒に組み立てたんだ。それで、こういうのは、なんとなくわかる」
ケンは、少し照れくさそうに、ノコギリを動かした。その音が、廊下に規則正しく響いた。
あかりは、その姿を、なぜか胸に焼きつけるように見つめていた。小学生の頃のケンが、ふと目の前に蘇ったような気がした。
作業が三日目に入った夜、事件が起こった。
ドームの骨組みを固定していた段ボールが、突然、音を立てて崩れた。
「危ない!」
ユウマの叫びと同時に、大きな段ボールが、ケンの頭上へ落ちてきた。あかりは、息を呑んだ。
けれど、ケンは、驚くほどの反射神経で、それを両腕で受け止めた。ずしりとした重みが、彼の体にのしかかる。それでも、ケンは倒れなかった。
「……大丈夫だ」
ケンは、歯を食いしばりながら、段ボールを床へ下ろした。その額に、汗が光っていた。
「ケン、怪我は?」
あかりが駆け寄ると、ケンは、手を振った。
「平気。ちょっと、腕が痺れただけ」
その言葉に、あかりは胸をなで下ろした。そして、ケンの腕を確認しようとして、手を伸ばした。
そのとき、ケンが、小さく顔をしかめた。
「……肩、大丈夫なの?」
あかりの問いに、ケンは、答えなかった。ただ、少しだけ黙って、肩を回してみせた。ぎこちない動きだった。
「大丈夫だって。心配すんな」
ケンは、そう言って笑った。けれど、その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
その夜、あかりは、ケンの後ろ姿を見送りながら、胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。
翌日、ケンは作業に来なかった。
篠原先生が、廊下で腕を組んでいた。
「高橋は、病院だ。肩の経過が悪くてな。しばらく、展示の作業は休ませる」
あかりは、息を呑んだ。ケンは、何も言わずに、一人で病院へ行ってしまったのだ。
篠原先生は、あかりの肩を、ぽんと叩いた。
「三浦、お前が心配するのはわかる。でもな、あいつは、お前に心配かけたくなくて、黙ってたんだ」
その言葉が、あかりの胸に、重く沈んだ。
ケンは、いつもそうだった。昔から、自分の弱さを、人に見せるのが苦手だった。だから、あかりは、もっと早く気づいてあげればよかったのだ。
「先生、私、ケンのところへ行ってきます」
「行ってこい。でも、今日は展示のことは忘れろ。あいつを、ちゃんと休ませてやれ」
篠原先生の声は、厳しかった。けれど、どこか、優しさがにじんでいた。
あかりは、廊下を走って、校門へ向かった。空は、いつの間にか、薄い雲に覆われていた。
ケンの家は、学校から歩いて二十分ほどのところにあった。
古い二階建ての家で、玄関の横には、使い込まれた自転車が並んでいる。あかりは、何度もここへ遊びに来ていた。小学生の頃は、毎日のように、この玄関の前でケンを待っていた。
インターホンを押すと、少ししてから、ケンの母親が出てきた。
「あら、あかりちゃん。久しぶりね」
「こんにちは。ケン、いますか」
「それがね、さっきまで部屋で寝てたのよ。ちょっと、疲れてるみたいで。上がって、起こしてあげて」
あかりは、靴を脱いで、階段を上がった。ケンの部屋の扉は、少しだけ開いていた。中から、かすかに、扇風機の回る音が聞こえてくる。
ノックをすると、中から気だるそうな声がした。
「……誰だよ」
「私」
一瞬の沈黙のあと、扉が開いた。ケンは、Tシャツ姿で、髪がぼさぼさだった。右肩には、大きなサポーターが巻かれている。
「なんだ、お前か。なんで来たんだよ」
「心配だから」
ケンは、ため息をついた。それから、扉を大きく開けて、あかりを中に入れた。
部屋の中は、ずいぶん片付いていた。ただ、壁には、昔のユニフォームが額に入れて飾ってある。背番号は、一〇番。そして、その横には、小学生の頃の、二人で撮った夜空の写真が貼ってあった。
あかりは、その写真に目を留めた。ぼやけた画像だったけれど、星が、たくさん写っていた。
「ケン、この写真、まだ持ってたんだ」
「うるせえな。捨てられなかったんだよ」
ケンは、ベッドに腰を下ろした。そして、肩のサポーターを、ぎゅっと握った。
「正直に言うと、もう野球は、ちょっと無理かもしれないって言われた。肩の腱が、やられてるかもしれないってさ」
あかりは、息を呑んだ。
「……そんな」
「ほら、そういう顔すると思ったから、言いたくなかったんだよ」
ケンは、力なく笑った。その笑顔が、あまりにも弱々しくて、あかりは何も言えなくなった。
「俺さ、ずっと、野球だけが自分だと思ってたんだ。投げられなくなったら、俺には何も残らない。そう思うと、怖くて、誰にも言えなかった」
ケンの声は、小さく震えていた。あかりは、ベッドの横の床に、そっと座った。
「ケン」
「なんだよ」
「ケンには、ちゃんと残ってるよ。私が知ってる。小学生のとき、神社の裏山で、一緒に星を見てくれたこと。夜中まで、ずっと笑ってたこと。それから、今日、展示の段ボールを、あんなに上手に組んでたこと」
ケンは、黙って聞いていた。その目が、少しずつ、赤くなっていく。
「ケンの手は、野球のためだけにあるわけじゃないよ。ちゃんと、いろんなものを作れる手なんだよ」
ケンは、自分の両手を、じっと見つめた。その手は、大きくて、ごつごつしていて、そして、どこか頼もしかった。
「……お前、昔から、変なこと言うよな」
「変じゃないもん」
「変だよ。でも、ちょっとだけ、楽になった」
ケンは、そう言って、ベッドに横になった。天井を見上げて、大きく息を吐く。
「なあ、あかり」
「なに」
「展示、どうなってる?」
あかりは、少しだけ微笑んだ。
「まだ途中。でも、もうすぐ、星空ができそうだよ」
「そっか。見たかったな」
「じゃあ、治ったら、見に来てよ。ケンが、天文部でまた一緒に作ったものだから」
ケンは、天井を見つめたまま、小さく頷いた。
「……そうだな。治ったら、絶対に行く」
その声には、いつもの力強さが、少しだけ戻っていた。
帰り際、玄関先で、ケンの母親が、あかりに麦茶を渡してくれた。
「あかりちゃん、ありがとうね。あの子、昔から、人に弱いところ見せられないのよ。あなたがいてくれて、本当に良かった」
あかりは、首を横に振った。
「私、何もしてません」
「ううん、そんなことないわ。あの子、笑ってたもの。ずいぶん、久しぶりに」
母親は、穏やかに笑った。その笑顔は、ケンによく似ていた。
家を出ると、夕方の風が、少しだけ涼しくなっていた。空は、雲が切れて、ところどころに、淡い青が覗いている。
あかりは、足を止めて、空を見上げた。まだ、星は見えなかった。けれど、夜になれば、きっと、どこかで光り始めるはずだった。
展示は、あと二週間で完成する。ケンが戻ってきたら、みんなで最後の仕上げをしよう。
そう決めて、あかりは、家へと続く坂道を、ゆっくりと下っていった。
翌日から、展示の作業は、残った四人で続けられた。
ケンがいない廊下は、どこか広く感じられた。段ボールを押さえる手が一本足りなくて、ドームの骨組みは、なかなか思うように固まらない。ユウマは、そのたびに「高橋先輩がいれば」と口にしたけれど、すぐに「いや、俺らでやるしかないっすね」と自分で言い直した。
その姿を見て、あかりは、少しだけ胸が痛んだ。ユウマも、ケンのことを、ずっと心配していたのだ。
昼休み、篠原先生が、美術室から顔を出した。手には、大きな紙の束を抱えている。
「お前たち、ちょっと来い」
呼ばれて美術室に入ると、壁一面に、古い天体画が貼られていた。どれも、手描きで、少しだけ色あせている。その中に、一枚だけ、まだ新しい星空の絵があった。
「これ、誰が描いたか、わかるか」
あかりは、首を横に振った。篠原先生は、少しだけ目を細めて、絵を指差した。
「俺が、学生の頃に描いたものだ。大学の美術サークルで、星を描いてた時期があってな」
「先生、星の絵を描いてたんですか」
サキが、驚いたように言った。篠原先生は、照れくさそうに笑った。
「ああ。でも、当時は、そんなこと誰にも言えなかった。美術ってのは、りんごとか花とか、そういうものを描くもんだと思われてたからな」
先生の言葉に、サキは、はっとしたように、目を見開いた。その瞳が、少しずつ潤んでいく。
「……私も、同じです。美術部で、星の絵を描いたら、怒られたんです」
篠原先生は、ゆっくりと頷いた。
「だからな、小林。お前の絵は、ちゃんと意味がある。星を描きたい奴は、もっと堂々と描けばいい」
サキは、俯いて、何度も頷いた。その肩が、小さく震えていた。
篠原先生は、ユウマの肩を叩いた。
「佐伯、お前も、野球だけじゃなくて、こういうのに本気になれ。段ボール切るのも、立派な仕事だぞ」
「は、はい!」
ユウマは、背筋をぴんと伸ばして、大声で答えた。その声に、美術室の空気が、少しだけ明るくなった。
最後に、篠原先生は、あかりの方を見た。
「三浦、お前は、部長として、よくやってる。だが、ひとつ、覚えておけ」
「はい」
「一人で全部背負うな。仲間がいるなら、頼れ。それが、本当の部長の仕事だ」
あかりは、深く頭を下げた。先生の言葉は、胸の奥に、しっかりと刻まれた。
放課後、あかりは、ハルと二人で、星座表の張り替えをしていた。ハルは、古い星座表を丁寧に剥がしながら、ぽつりと言った。
「高橋くん、大丈夫でしょうか」
「わからない。でも、ケンは、きっと戻ってくると思う」
「そうですね。三浦さんがそう言うなら、きっとそうです」
ハルの言葉は、いつもより少しだけ優しかった。あかりは、その言葉に、少しだけ救われた気がした。
星座表の下から、古い紙が一枚、はらりと落ちた。拾い上げると、それは、昔の部員が書いた観測記録だった。日付は、今から十年以上も前のものだ。
『星は、見えなくても、そこにある。見えるようになるまで、待つのも、観測のうち』
あかりは、その文字を、何度も読み返した。古い字は、少し震えていたけれど、力強かった。
ハルが、横からその紙を覗き込んだ。
「……いい言葉ですね」
「うん。先輩たちも、きっと、同じ空を見てたんだね」
ハルは、紙をそっと受け取って、星座表の裏に、丁寧に挟み直した。その手つきは、まるで、大切な宝物を扱うようだった。
あかりは、窓の外を見た。夕焼けが、校舎の影を長く伸ばしていた。その影の向こうに、一番星が、ちらりと光っていた。
その雲の向こうに、星は、まだ隠れていた。
けれど、あかりは、もう迷わなかった。ケンのところへ行って、ちゃんと話そう。そう決めて、足を速めた。

この作品が気に入ったら

コメント
まだコメントはありません。
会員登録(無料)かログインをすると、コメントを書けます。