文化祭の初日は、よく晴れていた。
朝の校門には、色とりどりの旗が並んでいる。『青葉祭』と書かれたアーチの下を、たくさんの生徒と保護者が行き交っていた。焼きそばの匂い、綿あめの甘い香り、吹奏楽部の練習する金管楽器の音。学校全体が、まるで大きな祭りの会場のようだった。
あかりは、天文部の展示場所の前に立っていた。
美術室の隣の廊下は、暗幕で囲われて、一気に夜の世界になっている。入口には、小さなトンネルのような通路が作られていて、その先に、星空のドームが広がっていた。
天井には、サキが描いた夜空の絵が、何枚も貼り合わされている。黒い画用紙の上に、白や黄色の星が散りばめられ、中央には大きな星雲が渦を巻いていた。その下には、ハルが撮った月や惑星の写真が、大きく引き伸ばされて飾られている。
壁際のケースには、夏の観測記録が並んでいた。ハルとあかりのノート。ユウマの、拙いけれど一生懸命な字で書かれた星座の図。ケンが書いた、観測の日付と天気の記録。
「完璧じゃないですか」
ユウマが、感嘆の声を上げた。その横で、サキが、少し照れくさそうに頷いている。
「ここまで来ると、なんか、感動しますね」
「まだ、始まってないよ」
あかりは、笑いながら言った。でも、胸の奥は、熱くてたまらなかった。
ケンは、まだ来ていなかった。肩のサポーターは、昨日の診察で、少しだけ外れたと聞いた。けれど、腕はまだ、重いものを持てないらしい。
「ケン、来るかな」
あかりの呟きに、ハルが、そっと答えた。
「来ますよ。高橋くん、ちゃんと約束は守る人だと思います」
その言葉に、あかりは、小さく頷いた。
開場の時間になると、人の流れが、一気に廊下へ押し寄せた。小さな子どもたちが、暗いトンネルの中へ駆け込んでいく。そして、天井を見上げて、一斉に歓声を上げた。
「わあ、星がいっぱい!」
女の子の声が、暗幕の中に響いた。あかりは、その声に、思わず振り返った。
小さな女の子が、ドームの天井を指差して、飛び跳ねていた。その横で、お母さんが、微笑みながら、説明書きを読んでいる。
「ここ、本当の星の写真なんだって。夏の、天の川の写真だよ」
お母さんの言葉に、女の子は、目をきらきらさせて、天井を見上げた。
あかりは、胸が熱くなった。展示が、確かに誰かに届いている。その実感が、初めて、全身に染み込んでいくようだった。
それからの一日は、あっという間だった。
次々と、人が訪れた。中学生のグループ、大学生の先輩、近所の大人たち。みんな、ドームの中で、思い思いに星を見上げていた。写真の前で足を止め、ノートを覗き込み、サキの絵を指でなぞる人もいた。
「これ、本当に高校生が描いたの? すごいね」
年配の男性が、サキに声をかけた。サキは、顔を真っ赤にして、俯いた。けれど、その声は、ちゃんと、はっきりと出ていた。
「は、はい。私が描きました。星の絵は、ずっと描きたかったんです」
「そうか。この星、ちゃんと光ってるように見えるよ」
男性は、穏やかに笑って、去っていった。サキは、その背中に、小さく頭を下げた。その瞳に、涙が光っていた。
昼過ぎ、廊下の入口に、一人の女子高生が立った。
制服は、隣町の女子校のものだ。茶色がかった髪を、高い位置で一つに結んでいる。明るい笑顔で、周りを見回していた。
その姿を見た瞬間、ハルの動きが止まった。
あかりは、すぐに気づいた。その子が、ミオだと。
ミオは、ハルを見つけると、ぱっと顔を輝かせた。そして、迷うことなく、こちらへ歩いてきた。
「ハル! 久しぶり!」
その声は、廊下中に響くほど大きかった。ハルは、少し照れくさそうに、手を挙げた。
「……久しぶり、ミオ」
「手紙、読んでくれたんだね。ごめん、急に行くって言っちゃって。でも、どうしても、ハルの学校の文化祭、見たかったんだ」
ミオは、ハルの前で、少し俯いた。その横顔は、思っていたよりずっと、寂しそうに見えた。
「ハル、ちゃんと、星を見てたんだね。この展示、すごく綺麗」
ハルは、何も言えずに、ドームの天井を見上げた。ミオも、同じように上を向いた。二人の間に、懐かしい沈黙が流れた。
「あの、三浦あかりです。天文部の部長です」
あかりが声をかけると、ミオは、ぱっと振り返った。その目が、一瞬だけ、あかりの顔を値踏みするように見た。それから、にっこりと笑った。
「はじめまして。ハルの友達のミオです。今日は、いきなり来ちゃって、ごめんなさい」
「ううん、来てくれて嬉しいです」
「ありがとう。ハル、ちゃんと、友達できたんだね。安心した」
ミオの言葉は、少しだけ、からかうような響きがあった。ハルは、耳まで真っ赤になって、「うるさい」と小さく呟いた。
その様子を見て、あかりは、思わず笑ってしまった。ハルのこんな顔は、初めて見た気がした。
夕方になって、ようやく、ケンが現れた。
肩には、まだ、白いサポーターが巻かれていた。それでも、表情は、いつもより穏やかだった。
「悪い、遅くなった」
「ううん、来てくれたんだね」
ケンは、展示を見回して、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと、ドームの中へ入っていった。
天井の星空を見上げるケンの姿は、なぜか、小学生の頃の彼に重なって見えた。
「……すげえな、これ」
ケンの声が、暗い空間に、低く響いた。
「本当に、天の川が流れてるみたいだ」
あかりは、胸の中が、じわりと温かくなるのを感じた。ケンは、ドームの中を一周して、最後にあかりの前で立ち止まった。
「お前ら、本当にすごいよ。俺、ここに入れてよかった」
その言葉に、あかりは、目頭が熱くなった。
「ありがとう、ケン」
「礼は、後夜祭のときに言え。今は、もっといろいろ見せろよ」
ケンは、照れくさそうに笑った。その笑顔は、いつもの、明るい、少年の顔だった。
文化祭の二日目は、雨になった。
それでも、展示場所には、たくさんの人が訪れた。雨の音が、暗幕の外から、ほのかに聞こえてくる。その音が、まるで星の瞬きのように、ドームの中に、やさしく響いていた。
そして、最終日の夜。後夜祭の時間が近づいた。
あかりは、ハルとミオと一緒に、校舎の屋上へ向かった。フェンスの向こうには、校庭の灯りと、体育館から漏れる音楽が見えた。
「ここ、星、見えるかな」
ミオが、空を見上げて言った。雲は、ほとんど消えていた。町の灯りが少しだけ弱くなった夜の空に、星が、ぽつぽつと光っている。
「見えるよ。今日は、結構いい」
ハルが、望遠鏡を組み立てながら答えた。その横顔は、夜の光の中で、穏やかだった。
ミオは、ハルの隣に座って、小さな声で言った。
「ハル、お父さんのこと、まだ引きずってる?」
ハルの手が、一瞬止まった。それから、ゆっくりと、また動き出した。
「……うん。でも、前よりは、ずっと楽になったよ。三浦さんたちがいるから」
ミオは、あかりの方を見て、にっこりと笑った。
「そっか。よかったね」
その声は、とても優しかった。あかりは、なぜか、目頭が熱くなった。
そのとき、屋上の扉が開いた。ケンとユウマとサキが、息を切らして駆け上がってきた。
「おーい、置いてくなよ!」
ユウマの大声に、みんなが笑った。夜空の下で、笑い声が、ふわりと広がっていった。
その夜、あかりは、みんなで望遠鏡を覗きながら、初めて心の底から、この部活が好きだと思った。
流れ星が、ひとつ、夜空を横切った。
「あっ」
五人の声が、同時に重なった。そして、みんな、顔を見合わせて、笑った。
屋上で、みんなが並んで座ると、しばらく誰も口を開かなかった。下の校庭からは、後夜祭のフォークダンスの音楽が、かすかに聞こえてくる。生徒たちの笑い声と、手拍子の音。それが、夜風に混じって、遠くまで流れていった。
最初に口を開いたのは、ユウマだった。
「俺、今日のこと、一生忘れないと思います」
「大げさだよ、佐伯くん」
あかりが笑うと、ユウマは真剣な顔で首を振った。
「大げさじゃないっすよ。だって、俺、中学のとき、部活辞めて、なんにもやる気なくして、ずっとぼーっとしてたんです。それが、ここに来て、星の名前とか覚えて、絵を描く子の隣で段ボール切って。毎日、すげえ楽しかったんです」
ユウマの声は、少し震えていた。サキが、そっと彼の背中に手を置いた。
「佐伯くん、ずっと一生懸命でしたよね」
「いや、俺なんて、ほとんど役に立ってないっすよ」
「そんなことないです。佐伯くんが大きい声で笑うと、みんな元気になるんです」
サキの言葉に、ユウマは、顔を真っ赤にして俯いた。その様子が可笑しくて、みんなが笑った。
ケンは、その輪の中で、少し離れた場所に座っていた。肩のサポーターを、片手で押さえている。ふと、その目があかりと合った。
「なんだよ、見てんじゃねえよ」
「見てないよ」
「嘘つけ」
ケンは、ぶっきらぼうに笑った。その笑顔は、夜の光の中で、はっきりと見えた。
「なあ、あかり」
「なに」
「俺、お前の部に入って、よかったと思ってる」
その言葉は、思いがけないほどまっすぐだった。あかりは、言葉を失った。胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……ケン」
「野球は、もう無理かもしれない。でも、ここでは、俺、ちゃんと役に立てた気がする。だから、ありがとな」
ケンは、そう言って、夜空を見上げた。その横顔は、どこか少年のようで、どこか大人びて見えた。
あかりは、何か言おうとして、言葉が詰まった。ただ、ケンの手を、そっと握った。ケンは、少し驚いたように、あかりを見た。それから、照れくさそうに、手を握り返してきた。
その様子を、ハルとミオが、少し離れた場所から見ていた。ミオは、にやにやと笑いながら、ハルの肘をつついた。
「ねえ、ハル。あの二人、いい感じじゃない?」
「……そういうの、今はやめとけよ」
「あ、照れてる」
「照れてない」
ハルの声は、いつもより少しだけ大きかった。ミオは、お腹を抱えて笑った。その笑い声が、屋上の夜空に、軽やかに響いた。
しばらくして、ミオが立ち上がった。
「そろそろ、帰らなきゃ。最終の電車があるから」
「送っていくよ」
ハルが言うと、ミオは、首を横に振った。
「ううん、大丈夫。ハルは、ここにいて。みんなと、星見てて」
ミオは、そう言って、ハルの肩をぽんと叩いた。その手は、昔からの友達に向けるような、気軽なものだった。
「ハル、ありがとう。今日、来てよかった」
「……うん。僕も、ミオが来てくれて、嬉しかった」
「本当に?」
「本当だよ。手紙、ちゃんと読んでたし」
ミオは、少しだけ目を潤ませて、笑った。それから、あかりに向かって、ぺこりと頭を下げた。
「三浦さん、ハルのこと、よろしくお願いします」
「え、あの、はい」
あかりは、慌てて頭を下げ返した。その様子を見て、ミオは、また楽しそうに笑った。
屋上の扉が閉まる音がして、ミオの足音が、階段を下りていった。その音が消えてから、ハルは、ぽつりと言った。
「ミオ、昔から、ああいう人なんです。人のことばっかり気にして、自分のことは後回しにする」
「いい子だね」
「はい。本当に、いい子です」
ハルは、夜空を見上げた。その目の奥に、少しだけ、涙が光っていた。
「僕、ミオに、ずっと、言えなかったことがあるんです」
「なに?」
「父さんが死んだとき、僕、泣けなかったんです。葬式でも、一度も泣かなくて。ミオが、ずっと心配してくれてたのに、僕は、ちゃんと向き合えなかった」
あかりは、息を呑んだ。ハルの声は、とても静かだった。
「でも、今日、ミオが来てくれて、なんか、少しだけ、楽になりました。たぶん、三浦さんたちのおかげです」
「私たち、何もしてないよ」
「してますよ。僕が、ちゃんと笑えるようにしてくれました」
ハルは、そう言って、少しだけ笑った。その笑顔は、今までで一番、やわらかかった。
あかりは、胸がいっぱいになって、何も言えなかった。ただ、ハルの横で、一緒に夜空を見上げた。
流れ星が、もう一つ、夜空を横切った。
「三浦さん、今、なに願いましたか」
「内緒」
「ずるいですね」
二人は、顔を見合わせて、笑った。
翌週、生徒会のレイが、天文部の展示について、わざわざ部室まで報告に来た。
「来場者数、千人を超えたそうよ。アンケートでも、評価がすごく高かった。『来年も見たい』って声が、たくさんあった」
あかりは、目を丸くした。千人。その数字が、まるで夢のように思えた。
「本当ですか」
「本当よ。あなたたちがやったことは、ちゃんと届いたの」
レイは、いつもの落ち着いた声で言った。それから、少しだけ、笑った。
「正直に言うと、ちょっとだけ、羨ましかったわ。こんなに楽しそうに、何かに打ち込めるなんて」
その言葉に、あかりは、胸がじんと熱くなった。レイが、そんなふうに思っていたなんて、初めて知った。
「水瀬先輩も、一緒にやればよかったのに」
「ばか。生徒会の副会長が、星の部にいたら、おかしいでしょう」
レイは、そう言って、顔を背けた。その耳が、少しだけ赤かった。
青葉祭は、こうして、終わりを迎えた。
それは、あかりたちにとって、最初の、大きな光だった。
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