十二月に入ると、海風は一層冷たくなった。
朝の坂道は、白い息と、眠そうな生徒たちでいっぱいになる。学校の窓ガラスには霜が降りて、教室の暖房が効いていても、廊下の隅は凍えるように寒かった。
あかりは、マフラーに顔をうずめて、部室へ向かっていた。
青葉祭が終わってからの数か月は、あっという間だった。展示の反響が大きかったおかげで、天文部は学校の中で、ちょっとした有名な部になっていた。新入生が何人か見学に来たし、先生たちも、ときどき部室を覗きに来るようになった。
けれど、あかりの心には、ずっと小さな影が落ちていた。
その原因は、ハルだった。
ハルは、ここ数週間、ずっと何かを考えているようだった。観測の時間は変わらず一緒にいてくれる。でも、ふとした瞬間に、遠くを見る目をしていることが多くなった。話しかけても、少し反応が遅れる。笑っていても、どこかで無理をしているように見えた。
「藤原くん、最近、疲れてる?」
部室の掃除をしながら、あかりが聞いた。ハルは、望遠鏡のネジを締めていた手を止めて、少しだけ笑った。
「いえ、大丈夫です。ちょっと、考え事をしてただけで」
「考え事って?」
ハルは、答えなかった。ただ、ネジを締め直して、また作業に戻った。その横顔は、いつもより硬くて、遠かった。
あかりは、それ以上聞けなかった。聞いてはいけないような気がしたのだ。
その日の放課後、進路希望調査の紙が配られた。
担任の先生は、教壇の上で、締め切りの日付を繰り返した。『来年の進路を、よく考えて書いてください』。その声を聞きながら、あかりは、白い紙を見つめていた。
天文学を学びたい。それは、もう何年も前から、胸の中にあった夢だった。でも、それを口にするのは、なぜか少しだけ怖かった。
大学で天文学を学ぶ。その先に何があるのか、あかりにはまだ、はっきりとは見えていなかった。
ペンを握ったまま、あかりは、ぼんやりと窓の外を見た。冬の空は、澄んでいて、星がよく見えた。
ふと、隣の席の田村が、紙をのぞき込んでいた。
「三浦、もう書いたのか」
「まだ。田村くんは?」
「俺は、経済学部。親父が、商店街で店やってるからさ。継ぐかどうかはわかんないけど、とりあえず勉強しとく」
田村は、照れくさそうに頭をかいた。その表情は、どこか誇らしげだった。
あかりは、田村の紙を見て、なぜか胸がちくりと痛んだ。みんなが、少しずつ、自分の道を見つけているように見えた。
その日の夜、ハルからメッセージが届いた。
『明日、部室で少し話せますか』
あかりは、すぐに『もちろん』と返信した。画面を見つめながら、胸の奥が、ざわざわと落ち着かなかった。
翌日、部室には、ハルと二人きりだった。ユウマとサキは、冬休み前の部活の準備で、体育館に行っていた。ケンは、リハビリのため、病院へ通っている。
窓の外では、雪がちらついていた。白い粒が、灰色の空からふわりと落ちてくる。
「三浦さん」
ハルの声は、いつもより低かった。あかりは、顔を上げた。
「僕、来年の春に、海外に行くことになりました」
あかりは、息を止めた。言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
「……海外?」
「はい。父さんの母校の、大学の研究室に、短期の留学をさせてもらえることになって。天文学の、本格的な研究の手伝いをするんです」
ハルは、淡々と話した。けれど、その声の奥に、かすかな震えがあった。
「それ、いつまで?」
「一年です。もしかしたら、もう少し延びるかもしれません」
あかりは、窓の外の雪を見た。白い粒が、ガラスに触れて、すぐに溶けていく。その小さな水滴が、涙のように見えた。
「どうして、今まで言ってくれなかったの」
「言えませんでした。三浦さんが、天文部のために、あんなに頑張ってるのを見て、僕だけ、遠くへ行くなんて、言えなかったんです」
ハルの声が、少しだけ大きくなった。その目が、あかりを真っ直ぐに見ている。
あかりは、何も言えなかった。胸の中が、冷たくて、重たくて、どうしようもなかった。
「ごめんなさい」
ハルは、深く頭を下げた。その姿に、あかりは、慌てて首を振った。
「謝らないでよ。藤原くんは、悪くない」
「でも、三浦さんを置いていくみたいで、嫌なんです」
「置いていかれても、いいよ。藤原くんが、やりたいことなら」
言葉が、勝手に口から出ていった。あかりは、自分の声が、少しだけ震えているのに気づいた。
ハルは、黙って、あかりの顔を見つめた。その瞳には、迷いと、悲しみと、そして、どこか安堵のようなものが、混ざり合っていた。
「ありがとうございます」
ハルは、小さく言った。その声は、雪の音に溶けるように、静かだった。
その日の帰り道、あかりは、一人で坂道を歩いた。雪は、少しずつ強くなっていた。
坂の途中で、ケンとすれ違った。ケンは、リハビリの帰りらしく、大きなバッグを肩にかけていた。ジャージの袖から、サポーターの白い布が覗いている。
「おう、あかり」
「ケン、リハビリ、どう?」
「まあまあ。医者は、来年の春には、軽くキャッチボールできるかもって言ってた」
「そうなんだ。よかった」
ケンは、少しだけ笑った。その笑顔は、以前より、少しだけ大人びて見えた。
「なあ、あかり。お前、なんか元気ないな」
あかりは、慌てて笑顔を作った。でも、ケンの目は、ごまかせなかった。
「何かあったのか」
「ううん、なんでもない」
「嘘つけ。顔に書いてあるぞ」
ケンは、ため息をついた。そして、ぽつりと言った。
「お前、昔から、そういうとこあるよな。一人で抱え込んで、誰にも言わないでさ」
その言葉は、篠原先生の言葉と、よく似ていた。あかりは、胸がじんと熱くなった。
「……藤原くんが、海外に行くんだって」
ケンは、一瞬、何も言わなかった。それから、小さく息を吐いた。
「そうか。それは、寂しいな」
「うん、寂しい」
「お前、藤原のこと、好きなのか」
その直球な質問に、あかりは、言葉を失った。好き。その言葉が、頭の中で、何度も反響した。
「わからない」
あかりは、正直に答えた。ケンは、少しだけ黙って、空を見上げた。
「そっか。まあ、わかんねえなら、無理に答え出すことないよ」
ケンは、そう言って、あかりの肩をぽんと叩いた。その手は、どこか寂しげに、少しだけ震えていた。
雪は、二人の間に、静かに降り積もっていく。
その夜、あかりは、ベッドの中で、ずっと天井を見つめていた。ハルの言葉が、頭の中で繰り返される。『置いていく』。そして、自分の言った、『置いていかれてもいい』という言葉。
あの言葉は、本当に自分の気持ちだったのか。それとも、ただ、強がっていただけなのか。
答えは、まだ出なかった。
翌日の部室は、いつもと同じように見えた。
ユウマが、入口の扉を勢いよく開けて、「寒い寒い!」と叫びながら入ってきた。サキは、その後ろから、マフラーをぐるぐると巻いて、そっと入ってくる。二人の頬は、外の寒さで真っ赤になっていた。
「三浦先輩、藤原先輩、お茶いります? 俺、買ってきたんですけど」
ユウマが、自販機の缶を両手で差し出した。あかりは、その温かさに、少しだけ笑った。
「ありがとう、佐伯くん」
ハルも、同じように、小さく頭を下げた。その様子は、昨日の出来事がなかったかのように、普通だった。けれど、あかりは、ハルの目を見るのが少しだけ怖かった。
ユウマとサキは、冬休みの予定を、楽しそうに話し始めた。
「俺、冬休みに、野球部の練習試合の手伝いするんすよ。高橋先輩の代わりに、審判補助とか」
「佐伯くん、すごいね」
「いや、全然すごくないっす。でも、なんか、野球もまだ好きなんだなって、最近思うんです」
ユウマは、照れくさそうに頭をかいた。その横で、サキが、スケッチブックを開いた。
「私は、冬休みに、美術館へ行こうと思ってて。星の絵を、もっと勉強したいんです。前に、先生が教えてくれた展覧会があって」
「小林さん、本当にすごいね」
あかりが言うと、サキは、はにかんだように笑った。その笑顔は、春に来たときよりも、ずっと明るかった。
「三浦先輩は、冬休み、何するんですか」
サキの問いに、あかりは、言葉に詰まった。
「まだ、決めてない」
「そうなんですか。じゃあ、一緒に星、見に行きましょうよ。寒いけど、絶対綺麗ですよ」
サキは、ふわりと笑った。あかりは、その笑顔に、なぜか胸が熱くなった。
その日の放課後、あかりは、一人で校舎の屋上へ向かった。冬の屋上は、凍えるように寒く、人影はなかった。雪はもうやんでいて、雲の切れ間から、冷たい光が覗いていた。
フェンスにもたれて、あかりは、深く息を吐いた。白い息が、空へと消えていく。
ハルの決断を、責めるつもりはなかった。ハルは、ずっと父親の夢を追いかけてきた。その夢を、自分の手で叶えられるチャンスが来たのだ。それを、応援しないなんて、できるはずがない。
でも、胸の奥は、ずっと冷たいままだった。
ハルがいなくなる。それは、ただの、部員が一人減るということではなかった。あの夜の屋上で、二人で願い事をしたこと。流れ星の下で、交わした言葉。それらが、全部、遠くへ行ってしまうような気がした。
あかりは、目を閉じた。瞼の裏に、ハルの笑顔が浮かんだ。夜の光の中で、少しだけ寂しそうに笑う顔。
その笑顔を、もう少し、見ていたかった。
そう思ったとき、あかりは、自分の気持ちに、初めて、はっきりと気づいた。
けれど、その気持ちを、どう伝えればいいのか、わからなかった。
屋上の扉が、きいと音を立てて開いた。振り返ると、そこにはハルが立っていた。
「三浦さん、ここにいたんですね」
「……うん。ちょっと、考えごと」
ハルは、あかりの隣に来て、フェンスに手をかけた。その横顔は、夕日の残り火に照らされて、少しだけ赤く染まっていた。
「昨日の話、ちゃんと、もう一度させてください」
あかりは、頷いた。ハルは、ゆっくりと、言葉を選ぶように、話し始めた。
「僕、正直に言うと、留学のこと、すごく迷ってました。父さんの夢を叶えたい気持ちと、ここに残りたい気持ちが、ずっと喧嘩してたんです」
「ここに残りたい、って思ってたの?」
「はい。三浦さんや、佐伯くんや、小林さんや、高橋くんと、一緒に星を見てるのが、すごく楽しくて。こんなに楽しいの、父さんが死んでから、初めてだったんです」
ハルの声は、少しだけ震えていた。あかりは、息を止めて、その言葉を聞いた。
「でも、それを言ったら、三浦さんが困ると思って。だから、昨日は、ああ言うしかなかったんです」
「ああ言うしかなかった、って?」
「『僕は行きます』って。三浦さんが、『置いていかれてもいい』って言ったから。それなら、僕は、ちゃんと行かなきゃいけないって」
あかりは、目の奥が熱くなるのを感じた。あの言葉は、強がりだった。でも、ハルは、それを本気にしてしまったのだ。
「藤原くん、それ、違うよ」
「え?」
「私、本当は、置いていかれたくない」
言葉は、ひとりでに、あかりの口からこぼれた。自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
ハルは、目を見開いた。その瞳が、夕日の残り火を映して、きらりと光った。
「三浦さん……」
「藤原くんがいない天文部なんて、想像できない。夜の屋上も、天文台も、流れ星も、全部、藤原くんと一緒がいい」
あかりの声は、震えていた。それでも、止められなかった。ハルは、しばらく何も言わなかった。その沈黙の中で、校庭の方から、部活の声がかすかに聞こえてくる。
「……ありがとうございます」
ハルの声は、かすかに掠れていた。
「僕も、三浦さんと、同じ気持ちです。ずっと、言えなかったけど」
あかりは、何も言えずに、ハルの横顔を見つめた。ハルは、照れくさそうに、フェンスの向こうの空を見上げた。
けれど、その空は、まだ厚い雲に覆われていた。
「でも、留学は、やっぱり行きます。父さんの夢を、ちゃんと、僕の手で続けたいから」
ハルの言葉は、静かで、強かった。あかりは、その強さに、少しだけ胸が痛んだ。
「うん。応援する。本当に」
「ありがとうございます。三浦さんが応援してくれるなら、僕、頑張れます」
二人は、フェンスにもたれて、しばらく黙ったまま、遠くの街の灯りを眺めていた。
冬の夜は、まだ長い。けれど、二人の間にある距離は、確かに、少しだけ近づいていた。
それなのに、どこかで、何かが、すれ違っていく気がした。
それが何なのか、あかりには、まだわからなかった。
冬休みに入った最初の週末、あかりは、ケンと一緒に、神社の裏山へ向かった。
小学生のころ、二人で秘密基地を作った場所だ。今は、もう、ブルーシートも段ボールも、跡形もなくなっている。ただ、大きな杉の木だけが、昔と同じように、空へ向かって伸びていた。
「懐かしいな」
ケンが、杉の木の根元に腰を下ろして、白い息を吐いた。あかりも、隣に座った。雪は、地面に薄く積もっていて、足元がきゅっと音を立てる。
「ここ、昔は、もっと広く感じたのにね」
「そりゃ、俺らがでかくなったからだろ」
「ケンだけでしょ、大きくなったの」
「お前だって、背、伸びただろ」
二人は、顔を見合わせて、笑った。その笑い声が、雪の静けさに、ふわりと溶けていく。
しばらく、何も言わずに、空を見上げた。雲は、まだ厚く、星はほとんど見えなかった。それでも、雲の切れ間から、ひとつだけ、白く光る星が覗いていた。
「あれ、なんの星だっけ」
ケンが、指差した。あかりは、少し考えてから、答えた。
「たぶん、北極星。ほら、ずっと同じ場所にあるから、昔から、道しるべになってたんだって」
「ふーん。じゃあ、あれがあれば、迷わないってことか」
「そうだね。迷いそうになったら、あの星を探せばいい」
ケンは、少し黙ってから、ぽつりと言った。
「俺さ、野球やってたとき、いつも、ボールの行き先ばっか見てたんだ。でも、お前とここで見た星は、もっと遠くを見てたよな。あれ、なんか、ずっと覚えてる」
あかりは、ケンの横顔を見た。彼の目は、雲の切れ間の星を、まっすぐに見つめていた。
「ケン、野球、本当に好きだったんだね」
「ああ。好きだったよ。今も、好きだ。でも、ちょっとだけ、遠くなった」
「遠くなった?」
「ああ。肩のことで、マウンドに立つのが、怖くなっちまったからな。ボールを投げるたびに、また痛むんじゃないかって、思っちまう」
ケンの声は、どこか寂しげだった。あかりは、膝の上で、手をぎゅっと握りしめた。
「それでも、ケンは、ちゃんと前を向いてるよ」
「そうか?」
「うん。私、ずっと見てたもん」
ケンは、ふっと笑った。そして、あかりの肩に、そっと頭をもたせかけた。その重みは、思っていたより、ずっと軽かった。
「お前、藤原の話をすると、目が変わるよな」
「えっ、そうかな」
「そうだよ。昔から、俺の知らない顔、してる」
あかりは、少しだけ、胸がちくりと痛んだ。ケンは、いつも、自分のことをよく見ていてくれる。その優しさが、時々、重たくなることがあった。
「ケン、ごめんね」
「謝んなよ。俺が、勝手に気になってるだけだ」
ケンは、そう言って、頭を起こした。その顔は、少しだけ赤く、寒さのせいか、それとも、別の何かのせいか、わからなかった。
その夜、あかりは、家に戻って、母に進路の話をした。
「天文学、ね」
母は、台所で、お茶を淹れながら、少しだけ考えるように言った。
「あんた、昔から、星ばっかり見てたもんね。図鑑、何回読んだか、わかんないくらい」
「うん。でも、大学で、ちゃんと勉強したいの」
「いいじゃない。応援するわよ」
母の声は、思っていたよりも、ずっと穏やかだった。あかりは、少しだけ、泣きそうになった。
「お母さん、ありがとう」
「何言ってんのよ。あんたの人生なんだから、好きにしなさい」
母は、湯呑みを、あかりの前に置いた。その湯気の向こうで、母が、少しだけ笑っていた。
翌日、学校の進路指導室で、担任の先生にも、同じ話をした。先生は、真剣な顔で、あかりの話を聞いていた。
「天文学は、難しいぞ。でも、三浦なら、きっとやれる」
「はい、頑張ります」
「ただな、無理はするなよ。お前は、いつも一人で背負いすぎる」
その言葉に、あかりは、思わず苦笑いをした。どの先生も、同じことを言う。それだけ、自分は、わかりやすい顔をしているのだろうか。
放課後、あかりは、篠原先生の美術室を訪ねた。先生は、窓際で、キャンバスに向かって、筆を走らせていた。
「先生、私、天文学の大学に行きたいです」
篠原先生は、筆を止めて、振り返った。そして、ゆっくりと笑った。
「そうか。いい目をしてるな、三浦」
「先生の絵も、いい目をしてますね」
「そうか?」
「はい。夜の空の絵、ずっと見てました。あの、少し滲んだ青が、すごく綺麗で」
篠原先生は、少しだけ照れくさそうに、頭をかいた。その仕草は、ケンによく似ていた。
「俺も、昔、お前みたいに、星を描きたかったんだ。でも、いつの間にか、描くのをやめちまった」
「どうして、やめたんですか」
「怖かったんだろうな。自分の描く星が、誰にも届かなかったら、どうしようって」
あかりは、胸が締めつけられた。篠原先生の声は、静かだったけれど、深い悲しみがにじんでいた。
「先生、届いてますよ。私たちの展示、先生の絵があったから、みんな、星を好きになったんです」
篠原先生は、目を細めて、あかりを見た。
「そうか。ありがとうな」
先生は、そう言って、再び、キャンバスに向かった。その背中は、どこか、少しだけ、軽やかに見えた。
美術室を出ると、窓の外に、雪が舞い始めていた。白い粒が、校庭の街灯に照らされて、きらきらと光っている。
あかりは、その光景を、しばらく見つめていた。
窓の外では、雪が、星の光をすべて隠していた。

この作品が気に入ったら

コメント
まだコメントはありません。
会員登録(無料)かログインをすると、コメントを書けます。