最初に聞こえたのは、鐘の音だった。
昼下がり家に戻って、母さんの出してくれたパンをかじっていたときだ。
村の中央の鐘が、割れんばかりに鳴り響いた。朝と夕方を告げる、あの間延びした音じゃない。叩きつけるような、何かに追い立てられているみたいな音だった。ひとつ、またひとつ、間を置かずに打ち鳴らされる。
パンを持った指が、動かなくなった。
窓の外で誰かが叫んだ。誰かが走った。桶が倒れる音がして、犬が狂ったように吠え出す。どこかで子どもが泣き声を上げて、母親の呼ぶ声が重なった。
昼の光の中で、村がひっくり返っていく。
「イルヴァ! アーシャ!」
外から父さんの声がした。
僕は母さんと一緒に、外へ飛び出した。
道には鍬や斧や槍を握った大人たちが走っていた。さっきまで畑の話をしていた顔が、まるで別人みたいに硬い。誰かが怒鳴り、誰かが荷車を蹴倒し、砂ぼこりが陽の中で白く舞う。
「あなた」
「魔物だ! 魔獣もいる!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすうっと冷えた。
魔物。魔獣。本の挿絵でなら、見たことがある。牙をむいた黒い絵。ページを捲れば消えてしまう絵。
でも父さんは腰に剣を佩いていた。壁に掛けたままの、錆びついているとばかり思っていた剣だ。抜かれた刃は、ちゃんと陽の光を返した。
父さんは昔、冒険者だったらしい。だからこういうときにどうすればいいのかを知っている。
「避難しろ! イルヴァを連れて早く!」
剣を握った父さんの背中は、いつもよりずっと大きく見えた。
その背中を見て、僕は自分の手に視線を落とした。
僕だって、魔法で――。
「僕も行く」
「駄目だ」
即答だった。
「でも……」
「駄目だ、イルヴァ」
「僕だって魔法が使える!」
「知ってる」
父さんが僕を見る。
「でも、お前はまだ子どもだ」
「半年も練習した」
「それでもだ」
悔しさで、喉の奥が熱くなった。
確かに、僕は子供だ。でも魔法だって使える。前よりずっと上手くなった。少しくらいなら、役に立てるはずだ。手の平の中で、魔力がじりじりと疼いている。ここにある。使えるのに。
その時、道の向こうから、おじさんがリディアを連れて走ってきた。
「リディア!」
リディアは木剣を握りしめていた。頬が強張って、息が浅い。
おじさんは父さんと目だけで一言交わすと、リディアの前にしゃがみ込んだ。
「リディア」
「……はい」
「お前は戦うな」
「でも、お父さん」
「お前はイルヴァと一緒に避難しろ」
リディアは何か言いかけて、唇を結んだ。木剣を握る指の関節が白くなっていく。
おじさんはその手から木剣をそっと取り上げると、代わりに自分の腰から予備の小さな剣を鞘ごと外して、リディアの帯に差し込んだ。
「これは持っていけ。……抜かずに済むことを、祈ってる」
リディアは帯に差された重みを見下ろして、小さく頷いた。
父さんもおじさんも、もう戦う準備をしている。みんなが戦う。なのに僕だけが逃げる。
それがどうしても嫌だった。
「僕も……」
言いかけた僕の頭に、父さんの手が乗った。
硬くて、大きな手だった。剣を握り続けてきた豆だらけの手。
「イルヴァ」
「……」
「もしもの時は、お前が母さんを守るんだぞ」
その言葉に何も言えなくなった。
「行きましょう」
母さんが僕の手を取った。
おじさんはリディアを強く抱き締めた。
「ここは任せろ。だから、そっちは頼むぞ」
「……分かった」
リディアは小さく頷いた。
「さぁ、リディアも行くわよ」
僕たちは、村のそばにある洞窟へ向かって走り出した。
振り返ると父さんとおじさんが、鐘の鳴る方へ駆けていくのが見えた。二つの背中は、すぐに土ぼこりの向こうへ消えた。
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