避難の道は、人でいっぱいだった。荷物を抱えた人。子どもを背負った人。誰かの名前を呼びながら走る人。母さんは僕の手を握り締めて離さなかった。その手は汗で湿って、震えていた。
リディアは僕の隣を走っている。帯の剣が走るたびに腰にぶつかって、鈍い音を立てた。
遠くで何か大きなものがぶつかる音がした。続いて誰かの叫び声。
「助けてくれ!」
僕は足を止めた。
リディアも同じだった。
「……今の」
「村の人だ」
道の先を見る。人垣の途切れた少し先の空き地に、一人の村人とそれがいた。
犬に似ている、と思った。次の瞬間、間違いだと分かった。
肩の高さが、僕の胸まである。灰褐色の毛は背中で針のように逆立ち、筋肉がひとつ動くたびに、毛皮の下で束になって盛り上がった。地面を掴む前脚の先には、僕の指ほどもある爪が土に深々と食い込んでいる。
魔物だった。
村人は槍を構えていた。けれど穂先は魔物の身体に届いていない。魔物は四つ足で地面を踏み締め、低く身を伏せていた。口元から粘ついた唾液が糸を引いて垂れる。
村人が槍を突き出す。
魔物は首を横に振って穂先を躱し、そのまま槍の柄に噛みついた。
「くっ……!」
村人が両手で槍を引く。魔物は離さない。前脚が土を削って、巨体がずるずると前へ滑ってくる。村人の靴が地面を掻き、背中が壁際へと追い詰められていった。
「このままじゃ……」
リディアが呟いた。
魔物が槍を大きく振り払った。柄が手から抜けて、乾いた音とともに地面を転がる。村人はよろめいて、尻餅をついた。
魔物が一歩、近づく。爪が地面に食い込み、ぎりぃ、と嫌な音を立てた。
僕の胸が強く締め付けられた。あの爪が振り下ろされたら、きっと助からない。
母さんが僕とリディアの腕を掴んだ。
「行くわよ」
「でも、あの人が!」
「大人たちが助けに行くから!」
母さんの声は、震えていた。
けれど道の先には誰もいない。誰も来ない。
村人は地面に手をついたまま、必死に後ずさっている。
魔物が前脚を引いた。
次の瞬間には、飛びかかる。そう思った。
「……っ」
気づけば僕は走り出していた。
「イルヴァ!」
リディアがすぐあとに続く。
「待ちなさい!」
母さんの声が背中に飛んできた。でも止まれなかった。
止まったら、もう二度と動けなくなる気がした。
その場から逃げ始める人混みを掻き分け、右手を前へ突き出す。魔法陣を描く。半年前よりずっと早い。頭の中で形を思い浮かべると、光の輪が広がって、いくつもの文字が回り始めた。
けれど魔物はもう飛びかかろうとしていた。
「――僕だって!」
水の塊が投げつけるように飛び出した。
魔物の肩にぶつかって、濡れた毛が大きく波打つ。巨体がぐらりと横へ流れた。
跳躍の軌道が僅かに逸れる。振り下ろされた爪が、村人の顔のすぐ横を掠めて、地面に突き刺さった。土が跳ねる。
「今!」
リディアが駆けた。魔物が顔を上げるより早く、その懐へ潜り込む。
帯の剣を抜いた。鞘走りの音が、短く鳴る。刃が、魔物の前脚を浅く切り裂いた。
その瞬間、赤い血がぱっと散った。その一滴が、リディアの頬にぴしゃりと張り付く。
リディアの足が、一瞬止まった。剣を持っていない左手が、頬へ動きかけて途中で拳になる。
木剣では血は出ない。どれだけ強く叩いても、痣ができるだけだ。リディアは、そうやって強くなってきた。
本物の血に触れたのは、今が初めてだったのかもしれない。
「グルァッ!」
魔物が吠えた。その声は、耳じゃなく、肋骨の内側を震わせた。
リディアは唇を噛んで、剣を構え直した。
「今のうちに逃げて!」
リディアが村人に叫ぶ。
「で、でも……!」
「早く!」
「助けを呼んでくるからな」
村人は槍を拾う余裕もなく、転がるように立ち上がって何度も躓きながら走っていった。
その背中を見送って、助けられた、と思った。
けれど。低く、腹の底を震わせる唸り声が聞こえた。
魔物がゆっくりとこちらを向く。
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