魔物がゆっくりとこちらを向く。
前脚から血を流している。肩の毛は水でぐっしょり濡れて、獣臭い湯気が立ち昇っていた。それでも倒れるどころか、さっきよりもはっきりと僕たちを見ていた。
黄色い目が、僕を捉える。
そこにあるのは、怒りだった。そして僕たちを獲物として数える目だった。
「…………」
喉が鳴った。
怖い。想像していたより、ずっと、ずっと怖い。
あれは、僕たちを殺せる生き物だ。頭で考えるより先に、そのことが身体へ流れ込んでくる。
指先が冷えた。右手が勝手に震え出す。足が地面に縫いつけられたみたいに動かない。
「イルヴァ」
リディアが隣に立った。
声が震えている。それでも剣を両手で握り直した。
「私たちで、時間を稼ごう」
「分かった」
返事をしたのに、声が上ずった。
魔物が前脚を引く。身体を低く沈める。背中の筋肉がぎゅっと縮む。
来る。そう思った瞬間、魔獣が地面を蹴った。
土が砕けて、土煙が上がる。
速い。さっきよりも、ずっと速かった。
僕は魔法陣を描こうとした。いつもならできる。何度も練習した。けれど魔物が気になって上手くいかない。
「……っ」
光の輪が歪んで、途中で弾け散った。
爪が迫る。
僕は横へ飛び込みながらなんとか避けた。
「もう一回……!」
立ち上がり無理やり魔法陣を組み上げる。今度は火。光が集まって、頬を熱が撫でた。けれど狙いを上手く定められない。
「くっ……!」
火を放つ。
それは魔物の横を通り過ぎて、背後の地面を焼いた。焦げた土の臭いが、鼻を刺す。
「イルヴァ!」
魔物が、こちらへ向きを変えた。その動きがあまりにも滑らかで、僕は一瞬何もできなかった。
口が開く。黄ばんだ牙が並んでいた。舌の上で唾液が泡になっている。
その口が僕へ迫った瞬間、リディアが横から割り込んだ。
「こっち!」
剣が閃く。魔物は首を捻って刃を躱した。剣は毛皮を撫でただけだった。
魔物の前脚が跳ね上がる。リディアは剣を立てて、それを受け止めた。
爪と刃が噛み合って、甲高い音が響く。
「くっ……!」
リディアの腕が震える。
魔物は止まらない。前脚を押し込むたびに、リディアの身体が少しずつ後ろへ押されていく。靴底が土を削る。
「リディア!」
僕は、手を向けた。でも魔法陣が出てこない。
焦れば焦るほど、頭の中が白くなる。円の形も、感覚も、どうやって魔力を流すのかさえ、思い出せない。
魔物の爪が剣の腹を滑って、リディアの肩へ近づいていく。
「早く……!」
リディアが歯を食いしばった。
僕は必死に息を吸った。水。水ならさっき出せた。同じものなら、できる。
魔力を集める。ようやく魔法陣が現れた。水が生まれる。
でも、狙いを定める前に魔物がリディアを弾き飛ばした。
「きゃっ!」
リディアの身体が宙に浮いて、背中から地面へ落ちた。
「リディア!」
魔物が僕へ向かってくる。四本の脚が地面を蹴るたびに、地面が揺れる。距離が、みるみる縮む。
僕は水を放った。魔物の胸に当たる。けれど勢いを殺すには足りなかった。水飛沫を弾き飛ばして、そのまま突っ込んでくる。
逃げようとした。でも足がもつれ尻餅をつく。
影が、僕の上に覆い被さった。
生臭い息が、顔に吹きかかる。牙の間から唾液が一滴落ちて、僕の頬に触れた。生暖かい。
「ひっ……!」
手を構える。魔法陣を作らなきゃ。でも何もできない。
爪が振り上げられた。その先が陽の光を反射して、白く光る。
あれが落ちてくる。
そう思った、その時。
「イルヴァ!」
リディアが、飛び込んできた。そのまま体当たりして、魔獣が数歩よろめく。
だけど魔物はすぐに飛び掛かって来た。
リディアは僕の前に立って、剣を横に構える。
爪が、剣へ叩きつけられた。金属の悲鳴が響く。リディアの身体が、ぐんと沈んだ。
「ぐっ……!」
剣が押し下げられて、肩が震える。
爪の一本が刃を滑り、リディアの左腕を走った。袖の裂ける音が、先に聞こえた。
それから、ほんの少し遅れて、赤い口が開く。皮膚が、布みたいにぱっくりと割れていた。肩と肘の間ぐらいに一本の赤い線が伸びている。
その際、一滴が僕の手の甲に飛んだ。
熱い。時間が止まった気がした。音が遠くなる。自分の心臓の音だけが、耳の奥で鳴り響いていた。
リディアの袖がじんわりと赤く染まっていく。
「リディア!」
「大丈夫。浅いから」
リディアは歯を食いしばった。それでも、剣を握った手だけは離さなかった。
「まだ、やれる……!」
剣を押し返そうとする。でも力が足りない。魔物が更に体重をかける。
リディアの膝が、地面に着いた。
怖い。怖くて、身体が動かない。
でも、リディアが目の前で必死に耐えてる。
僕は魔法陣を描こうとした。水でも火でもいい。何かを。何かを出さなければ。
「やめろ!」
声を絞り出した。魔法陣が現れ、水が大きさを増していく。
けれど、リディアの限界の方が早い。間に合わない――。
その時だった。
「そこをどけ!」
横から誰かが飛び込んできた。
剣が魔物の脇腹に突き刺さる。魔物が大きく身を捩った。爪がリディアの剣から外れて、地面に叩きつけられる。
「今だ!」
別の村人が叫んだ。
僕の腕が強く掴まれた。
「えっ」
引っ張られて身体が後ろへよろめく。
振り返ると母さんだった。
「母さん!」
「逃げるわよ!」
「でも、リディアが!」
「リディア!」
母さんが叫ぶ。
リディアも、別の村人に腕を掴まれていた。
「離して!」
「駄目だ!」
「まだ戦える!」
リディアが、魔物から目を離さずに叫ぶ。
けれどその声には恐怖が混じっていた。剣を握る手も、震えている。
「僕だってまだ――」
「戦えるかどうかじゃない!」
母さんが僕を強く引っ張った。
「あなたたちはまだ子どもなの!」
「……!」
何も、言い返せなかった。拳を握り締めたまま、僕は引きずられるしかなかった。
後ろを見る。村人たちが、魔物を相手にしている。剣を突き刺した人が爪を避ける。別の人が横から斬りつける。魔物は傷を負いながらも、身を低くして反撃した。その度に地面が抉れて、怒号が響く。
助けようとした人は、助かった。
それだけは、よかった。
でも僕たちは、何もできなかった。
魔法だって使える。リディアだって剣を振れる。だから、少しくらいなら戦えると思っていた。
違った。本物を前にすると、身体が動かなかった。頭が真っ白になって、魔法陣の形さえ思い出せなかった。練習の時は、相手の動きを読めた。失敗しても、やり直せた。
でもあれは違う。一回の失敗が、そのまま命に届く。
だから怖かった。何もできなかった。もっと早く魔法を使えていれば。どうして、身体が動かなかったんだ。
守るつもりだったのに……。
でも守られたのは、僕の方だった。最後に僕たちを助けたのも、大人たちだった。
母さんに引かれて走りながら、僕は何度も振り返った。リディアも、同じだった。
戦いの音が、少しずつ遠くなっていく。怒鳴り声も、剣のぶつかる音も、魔物の唸りも、細く薄れていった。
僕たちは、避難するしかなかった。
そして、僕たちの知らないところで大人たちは、まだ戦っていた。
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