「……もう大丈夫だ」
父さんだった。
「父さん!」
僕は駆け寄った。
無事だった。そのことに胸の奥が、一瞬だけ緩んだ。
けれど父さんは僕の頭に手を置いただけで、笑わなかった。
「怪我はないか?」
「うん」
頭に乗った手が小さく震えていた。
服は泥と血で汚れて、袖が裂けている。腕には布を巻いた傷。顔は僕が見たことのないくらいに疲れていた。
父さんは、戻ってきた。でも全員が戻ってきたわけじゃない。その考えが、頭から離れなかった。
洞窟の入口には、他の大人たちも次々と姿を見せていた。誰も「勝った」とは言わなかった。互いに目を合わせようとせず口を結んで、ただ人の数を数えるみたいに、視線を彷徨わせている。
リディアが、立ち上がった。父さんの背中の向こうを、じっと見ている。そこから誰か来ないかと、待っている。
だけどもう誰も来なかった。
「……村へ戻るぞ」
父さんの声は乾いていた。
僕たちは誰も口を開かないまま洞窟を出た。
リディアは、父さんの少し後ろを歩いていた。何度も何かを尋ねようとして、その度に口を閉じる。
僕も、同じだった。聞くのが怖かった。聞かなければまだ何も決まっていないような気がした。けれど村が近づくにつれて、鼻を刺すような嫌な臭いが少しずつ濃くなっていった。
*
空は夕暮れの色を失いかけていた。避難している間に、思っていたよりずっと時間が過ぎていたらしい。薄墨色の雲が、村の上に低く垂れ込めている。
戦いは終わったはずなのに、空気は重かった。
やがて村が見えた。
「……」
僕は足を止めた。
家が壊れている。屋根が崩れ壁が裂け、道には瓦礫が散らばっていた。黒く焦げた梁から、細い煙が立ち上っている。
でもそれだけじゃなかった。
道には赤黒い血が広がっていた。土に染み込み、窪みに溜まり、夕暮れの光を鈍く返している。
一歩、踏み出す。靴の裏が、ぐに、と何かを踏んだ。
「……っ」
反射的に足を引く。鼻の奥に鉄のような臭いが流れ込んできた。焦げた木や布の臭いと混ざり合って、村全体に残っている。
「うっ……」
口元を押さえる。その臭いの向こうに、人が倒れていた。
腕や足を不自然な形に曲げた人。傷を負ったまま動かない人。折れた剣や槍と一緒に、血で濡れた布切れが散らばっている。
僕は目を逸らした。けれど逸らした先にも同じ光景があった。壁際に倒れた人。血に染まった道。誰かの靴が、片方だけ落ちている。
その中に、見覚えのある姿があった。パンを焼いている、あのおじさんだった。店の前で仰向けに倒れている。いつも粉の付いてる前掛けが、赤黒く染まっていた。昨日の朝、焼きたてのパンの端っこを一つ僕にくれた人だ。
倒れた椅子。割れた皿。籠から転がり出た林檎。窓辺に干したままの洗濯物。
昨日まで、ここには人がいた。ご飯を食べて、笑って、明日の話をしていた。
その人たちが、今は動かない。胃の奥が急にせり上がった。
「……っ」
口元を押さえるけど、間に合わなかった。
「う、げ……っ」
身体を折り、道端に吐いた。胃の中に残っていたものが、ほとんどなくなるまで吐き続ける。喉が焼けるように痛かった。目に涙が滲み、息がうまく吸えない。
誰かが何かを言った気がした。でも聞き取れなかった。
暫くしてようやく顔を上げる。
だけど目の前に広がる景色は、何も変わっていなかった。
「イルヴァ、大丈夫?」
僕は口元を拭った。
周りではお父さんとお母さん、リディアが心配そうに僕を見つめていた。
「大丈夫」
「あんまり見るな。下を見てた方が良い」
「うん」
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