夜になっても鉄のような臭いは、まだそこにあった。夜気に冷やされて、かえって濃くなっているようだった。僕は袖で鼻を押さえながら歩いた。
リディアの姿はなかったけど、どこへ向かったかはすぐに分かった。
あの大樹だ。僕たちが何度も遊んだ場所。昼寝をした場所。魔法を練習した場所。お姉さんと、出会った場所。
村中が変わり果てたのに、大樹だけは何も変わらずそこに立っていた。月に照らされた枝が、空いっぱいに広がっている。葉が風に揺れて、さらさらと鳴る。今朝、僕が水をぶちまけたあたりの草は、夜露に濡れて、静かに光っていた。
朝と同じ音だった。
朝と同じ、風だった。
リディアは、その根元に座っていた。膝を抱えて、背中を小さく丸めている。僕が近づいても、振り向かなかった。
「……リディア」
「……」
返事はない。
僕は、隣に座った。何を言えばいいのか、分からなかった。大丈夫、なんて言えない。もう戻ってこない人を前にして、そんな言葉に意味があるとは思えなかった。
暫くして、リディアが手を伸ばした。
僕の手を握る。指先が、冷たくて震えていた。
僕も何も言わずに握り返した。
「……お父さん」
「うん」
「最後まで戦ったんだって」
「うん」
「お母さんも」
「……うん」
「二人とも、すごいよね」
「カッコいいね」
リディアは、昼間と同じように笑おうとした。
でも口元が少し動いただけだった。
「……お父さん、迎えに来ると思ってた」
突然リディアが言った。
僕は、黙って聞いた。
「お母さんも……いつもみたいに、迎えに来ると思ってた」
握られた手に少しだけ力を込める。
「だって、今夜はイルヴァの家にいるから」
「うん」
「いつもなら、遅くなったら、お父さんかお母さんが迎えに来るでしょ」
「……そうだね」
「だから今日も……扉が開いて」
リディアがゆっくり顔を上げた。
「リディア、帰るわよって……言ってくれると思ってた」
声が震えた。
僕は何も言えなかった。
「でも、誰も来なかった」
リディアは空を見つめた。
「ずっと待ってたのに」
その言葉が胸に刺さった。
「お父さんも、お母さんも……迎えに来なかった」
リディアはまだ分かっていないのかもしれないと思った。
死んだということを。
頭では分かっている。でも、心が追いついていない。
「今日も、帰ったらいっぱい話そうと思ってたのに」
「……うん」
「怖かったって言おうと思ってたのに」
声が少しずつ崩れていく。
「助けに行っちゃ駄目って言われたのに、行っちゃったって……怒られるかなって」
そこで言葉が止まった。
暫く何も聞こえなかった。
風が大樹の葉を揺らす音だけが、夜に響いている。
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