「……」
リディアが、立ち止まる。僕も、その場から動けなかった。
リディアのお父さんの鎧は、大きく傷ついていた。胸当てには、深い爪痕が三本、斜めに走っている。片腕に巻かれた布は、もう赤黒く染まりきっていた。
お母さんの服も破れていた。肩から脇腹にかけて、大きな傷が残っている。
誰かが二人の顔の血を拭ってくれたのだろう。頬は青白くて、疲れ切った表情がそこに残っていた。
でも眠っているようにも見えた。
今にも目を開けて『遅かったな』なんて、言い出しそうだった。
「……お父さん」
リディアが、小さく呟く。
返事はない。
「……お母さん」
やっぱり返事はない。
リディアは、二人の前にしゃがみ込んだ。手を伸ばしかけて、途中で止まった。触れるのが怖いのかもしれない。
少し迷ってから、お父さんの手にそっと触れた。
「……」
リディアの指が、ぴくりと震えた。それでも手を離さなかった。
僕は少し離れた場所から見ていた。何か言わなきゃいけない気がした。でも何も言えなかった。
父さんが静かに口を開く。
「二人がいなかったら、この村は駄目だったかもしれん」
リディアは黙っている。
「二人は、多くの命を守ってくれた」
「……うん」
「お前を守るためにもな」
リディアは俯いた。
肩が小さく上下した。泣いているのかと思った。でも涙は落ちなかった。
「……すごいね」
リディアが言った。口元だけが、ほんの少し動いた。
「お父さん、最後まで戦ったんだ」
「……あぁ」
「お母さんも」
「あぁ」
「……二人とも、すごい」
声が、震えていた。
それでも、リディアは泣かなかった。
泣かないんじゃない。
泣けないんだ、と思った。
「……私、お父さんとお母さんの子供でよかった」
父さんは、何も言わなかった。ただ目を伏せた。
母さんは、顔を背けていた。肩が小さく震えている。
リディアは二人の手を握ったまま、暫く動かなかった。
やがてゆっくりと手を離す。
「……またね」
小さな声だった。まるで明日も会えるみたいに。
僕は胸の奥が、きゅうっと苦しくなった。
*
その後、村の人たちは亡くなった人たちを運び、怪我人の手当てを始めた。誰かが火を起こし、誰かが水を運ぶ。
僕も手伝おうとした。でも何をしても、手につかなかった。水桶を持ち上げると、あの血だまりを思い出す。瓦礫に手をかけると、昼間の戦いの音が耳の奥で蘇る。
剣がぶつかる音。魔物の咆哮。誰かの叫び声。リディアの腕から落ちた、赤い雫。
そして二人が戻ってこなかったという事実。
僕たちが助けた村人は、生きている。僕たちも、生きている。
それなのに、胸の奥には重いものが沈んでいた。
日が完全に落ちた。村のあちこちで、小さな火が焚かれた。灯りがなければ、壊れた家も、倒れた人たちも、闇に沈んでしまうから。
けれど火が灯るほど、傷跡ははっきりと浮かび上がった。血の跡。壊れた家。折れた武器。動かなくなった人たち。闇の中に隠れていてくれた方が、まだよかったのに。
誰も大きな声で話さなかった。ときどき、どこかで誰かの泣き声だけがした。
夜になった。僕らの家は無事だった。だから部屋の中で横になっていた。リディアも家にいた。
眠れない。目を閉じると、昼間の光景が瞼の裏に浮かんでくる。何度も寝返りを打った。
そのうち喉が渇いてきた。布団から起き上がって、台所へ向かう。
廊下は暗かった。家の中には、誰も起きている気配がない。奥の部屋の前を通る時、僕は思わず息を潜めた。扉の向こうからは、何の音もしなかった。そして水瓶から汲んだ水を、飲もうとして。
玄関の扉が、静かに開く音がした。
「……?」
振り返る。廊下の向こう。扉の隙間から、夜の冷たい風が吹き込んでいる。
そして一瞬だけ。外へ出ていく小さな背中が見えた。
「……リディア?」
声にした時には、もう扉が閉まりかけていた。
水の入った器を置く。手がまだ震えていて、かたん、と音が鳴った。
急いで台所を出る。玄関へ向かう途中、階段の近くに母さんが立っていた。
「……イルヴァ」
「今、リディアが……」
「ええ」
母さんは扉の方を見て、それから僕を見た。
その目が、赤かった。
「追いかけてあげなさい」
僕は頷いた。
「……分かった」
僕もその背中を追って外へ出た。
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